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マリオ・レイチ・ホドリゲス・フィーリョ

Mário Filho - マリオ・フィーリョ
フルネーム Mário Leite Rodrigues Filho
生地と生年月日 1908年6月3日
 ペフナーンブク(pɛʁnɐ̃ˈbuku)州ヘシフィ(ʁeˈsifi/発音)
没年と死没地 1966年9月17日 (享年58歳)
 ヒッウ・ジ・ジャーネイル
 (Rio de Janeiro=ˈʁi.u d(ʒi) ʒɐˈne(j)ɾu/英語-ポルトガル語間IPA・国際音声記号。ブラズィウ固有発音では特にカリオカ者に多い)
国籍 ブラズィウ連邦共和国
伴侶 Sra.Célia Rodrigues
正業 ジャーナリストと作家
ベストセラー O Negro no Futebol Brasileiro (1947)

「マリオ・フィーリョ」ことマリオ・レイチ・ホドリゲス・フィーリョ (Mário Leite Rodrigues Filho)はブラズィウ(bɾaˈziw/ブラジウ/ブラジル)連邦共和国ペフナーンブク(ペルナンブーコ)州の州都ヘシフィ(Recife)出身の作家・スポーツ歴史家・ジャーナリスト。兄のネウソン・ホドリゲスも同様の業界で働いていた。

同郷出身の兄、ベセーハ・ダ・シウヴァ、イラーリオ・ジョヴィーノ・フェレイラ、シャクリーニャと並んでカリオカ文化派作家の筆頭格に数えられており、エスタジオ・ド・マラカナンの正式名称に「エスタジオ・ジョルナリスタ・マリオ・フィーリョ」の名前が付けられ生前の功績を顕彰されている。具体的にはマラカナン建設支援活動、フラメンゴ対フルミネンセの伝統の一戦に「フラフル」という呼びやすい名前を考え出した事などが挙げられる。また世界的に有名な2月のカルナヴァウにおいて、兄弟で一緒に経営していた雑誌ムンド・スポルチーヴォが1932年に「ジスフィレ・ダス・エスコーラス・ジ・サンバ(最も競争レベルの高い最上位カテゴリーから下位カテゴリーまでの複数パレードの総称)」を創設した。以降カルナヴァウ・カリオカには整然としたヒエラルキーや上下関係が生まれ、近代的な芸能行事に変化していった。

ビオグラーフィア

マリオ・フィーリョは幼くして北東部からRJに移住したが、それは7歳から8歳ごろに当たる1916年のことだった。父親マリオ・ホドリゲスの傍で彼の会社が所有する雑誌「ア・マニャン」で仕事を覚え始め、1926年から正式なスポーツ記者の役職を与えられた。まあこの職業が社会的認知もノウハウも無かった時代にあって、マリオは病的なほどフチボウ・カリオカに熱中し、彼が執筆・編集を担当した見出しとページは九分九厘地元クラブの試合結果やリポートで埋め尽くされた。父が所有するもう一つの雑誌「クリチカ(批評)」では詳細な調査と再確認作業に基づいて、試合の空気や選手の情感をより直接的に伝える表現力に磨きをかけていき、またトルシーダのチャントの歌詞を文章表現の参考にした事があった。この時代にはフラメンゴとフルミネンセという、全く対照的なクラブカルチャーと支持基盤を持つ両雄のライバル関係が急速に盛り上がっていたが、マリオはこのクラシコをFla-Fluと呼んだ最初の記者である事が大多数の人々から認知されている。
マリオはブラジルで最も古いスポーツ専門雑誌「ムンド・スポルチーヴォ」(一般社会ニュースも僅かにあった)の創刊者でもあるが、しかし残念ながら長続きはしなかった。1931年にはウォ・グローボで社主ホベルト・マリーニョの側近として働き、共にスヌーカーの試合現場に取材に赴いた。クリチカの創刊に伴い再びサッカージャーナリズムの世界に戻り、1930年代においては最早カリオカ大衆の壮大な娯楽と化した、この競技における一級批評家の地位を築いた。そして1932年にムンド・スポルチーヴォ(廃刊前)の一員としてエスコーラ・ジ・サンバの競技団体化に尽力した。
1936年にホベルト・マリーニョが「ジョルナウ・ドス・スポルツ」を買収、マリオは1947年に「ジョゴス・ダ・プリマヴェラ」、1951年に「ジョゴス・インファンチウ」を創刊。そして「トルネイオ・ジ・ペラーダ・ノ・アテーホ・ド・フラメンゴ」と「トルネイオ・ヒウ=サン・パウル」という2つの大会の設立も行った。後者はナショナルチームの選手選考にも役立った伝統ある2大州の直近王者同士によるタイトルマッチで、コパ・リベルタドーレスが存在しなかった当時においては実質国内クラブ王者決定戦に等しいと見做されており、それが国際的に問題になる事も無かった。よって直接的つながりは一切ないが、カンピオナート・ブラズィレイロの原点であるタッサ・ブラズィウへの流れを作ったという見方もある。サッカー以外ではボート競技と競馬が彼の熱意を掻き立てる種目だった。
1940年代末、マリオは連邦下院議員やグアナバラ州(1960-75。今はRJ州に吸収されている)知事などを務めた地元有力者カルロス・ラセルダと紛争状態に入った。RJ市の西部にあるジャカレパグア区は、ラセルダが1950年FIFAワールドカップのRJ州会場建設予定地として推奨していたが、これにマリオは大衆の意見を吸い上げて反対の論陣を張った。RJ市内のマラカナン区にある、かつて「ジルビ・クルービ」が持っていた土地をより好ましい会場建設候補地だと主張し、さらに「収容人数は世界史上前例のない15万人超を目指すべき」とも考えていた。1950年W杯の決勝リーグ最終戦では、完成したマラカナンに彼の期待を更に超える19万9894人が来場したが、試合結果は残酷なものになった。
1966年にマリオは心臓疾患により58歳で亡くなった。代表は既に悲願のW杯優勝を2回達成していた。業界の人々は「ブラジルサッカー史上最高のジャーナリストが世を去った」と考え、18歳で結婚してから苦楽を共にしてきた妻のセリア氏は後追い自殺した。その後まもなくして、エスタジオ・ド・マラカナンの正式名にマリオの職業と名前が付けられた。
演劇作家・歴史家である実の兄ネウソンは「弟は大衆というものを造り上げた」と、ジャーゴンじみた難解な表現で振り返っている。言わんとすることはカリオカ達の日常生活にサッカーを文化として根付かせるにあたり、歴史的貢献をしたアジテイターという事であろう。
マリオは著作家として、国中で一次資料として多数引用されている重要なサッカー関連書籍を計6冊執筆した。1931年から1976年まで行われていたウルグアイの定期戦「コパ・ヒウ・ブランク」に関する本、フラメンゴの歴史本、ブラジルサッカー界における黒人についての本、ブラジルが2度目の優勝を決めたチリでの1962FIFAワールドカップについての本、当時23-24歳だったペレの経歴に関する本など扱う題材は多様である。なお例外として幼少時からの友人だった画家カンディドゥ・ポルチナーリに関する本も1962年に書き上げており、理由は不明だが4年後の1966年になってブロッチ社から出版された。
初期の著作はフィクション小説ばかりで、「1950年の御嬢さん達」は一見マラカナンの悲劇に関する本かと見紛うが、1928年に執筆した架空の物語である。マリオは後年これは駄作だったと自己否定している。遺作となったのは1965年の「その横顔」。

オブラス

  • 1927: Bonecas - 「人形たち」
  • 1928: Senhorita 1950 - 「1950年の御嬢さん方」
  • 1932: Copa Rio Branco - 「コパ・ヒウ・ブランコ」
  • 1934: Histórias do Flamengo - 「フラメンゴの歴史」
  • 1947: O Negro no Futebol Brasileiro - 「フチボウ・ブラジレイロの黒人」
  • 1949: Romance do Football - 「蹴球浪漫」
  • 1962: Copa do Mundo de 62 - 「1962 FIFAワールドカップ」
  • 1964: Viagem em Torno de Pelé - 「ペレの足跡を辿る旅」
  • 1965: O Rosto - 「その横顔」
  • 1966: Infância de Portinari - 「ポルチナーリの子供たち」
  • 1994: Sapo de Arubinha (Crônicas reunidas) - 歴史再編本「アルビーニャの蛙」

シタサゥン

Dondinho era preto, preta dona Celeste, preta vovó Ambrosina, preto o tio Jorge, pretos Zoca e Maria Lúcia. Como se envergonhar da cor dos pais, da avó que lhe ensinara a rezar, do bom tio Jorge que pegava o ordenado e entregava-o à irmã para inteirar as despesas da casa, dos irmãos que tinha de proteger? A cor dele era igual. Tinha de ser preto. Se não fosse preto não seria Pelé” - 「ドンジーニョは黒かった。この黒い男はおなじく黒い御母様セレスチ、祖母アンブロジーナ、黒い叔父ジョルジ、黒いゾッカとマリア・ルシアと肌の色が似ていた。この国の色を教えてもらいたいなら御婆様に聞きなさい、むろん叔父ジョルジはよく知っているから丁寧にかみ砕いて説明してくれるし、君の姉さんに聞いても家計の状態と同じぐらい正確に言うよ。兄さんたちは一体何を隠しごとする必要があるのかね。同じだよ、どこのどいつも。我らの肌は黒に染まる宿命。黒くならないブラジル人?それは多分ペレだ」
De O Negro no Futebol Brasileiro - 著作「フチボウ・ブラジレイロの黒人」より

ヘフェレーンシアス

  1. «Mário Filho». Memória O Globo. Consultado em 21 de novembro de 2016
  2. «Mario Filho: futebol, carnaval e construção da alma carioca». Portal MultiRio. Consultado em 22 de julho de 2017
  3. «A história dos desfiles das escolas de samba». Portal MultiRio. Consultado em 21 de julho de 2017
  4. «Clássico de poesias! Há 100 anos, Nelson Rodrigues e Mário Filho chegavam ao Rio e ao Fla-Flu». LANCE!. Consultado em 21 de julho de 2017

リガソンイス・イシュテルナス


翻訳元最終履歴 pt.wikipedia:Mário Filho‎ 15h58min de 19 de julho de 2019 (UTC)

・ 1948-49ウルグアイサッカー選手組合ストライキ - 1950年ワールドカップ王者の知られざる内戦