エスタディオ・プレシデンテ・ペロン

スタジアムデータ

スタジアムの特徴

スタジアムの歴史

コンサート開催実績

 


スタジアムデータ

El Cilindro de Avellaneda エル・シリンドロ・デ・アベジャネーダ
Estadio Presidente Peron.jpg
所在地 Bandera de Argentina ブエノスアイレス大都市圏アベジャネーダ市
地点 34°40′03″S 58°22′07″O座標:
 34°40′03″S 58°22′07″O (地図)
所有者 ラシン・クラブ (クルブ)・デ・アベジャネーダ
技術詳細
ピッチ 天然芝
収容人数 66,000 (実用60,000) 人
建設
開場 1950年9月3日
ホームチーム
ラシン・クルブ
イベント
南米選手権1916
パン・アメリカン・ゲームス1951
決勝 コパ・リベルタドーレス1967
FIFAインターコンチネンタル・カップ1967
決勝 トルネオ・メトロポリターノ1969
決勝 トルネオ・ナシオナル1976
決勝 スーペルコパ・スダメリカーナ1988
決勝 スーペルコパ・スダメリカーナ1992
決勝 コパ・スダメリカーナ2007
レコパ・スダメリカーナ2008
優勝決定プレーオフ トルネオ・アペルトゥーラ2008
コパ・ビセンテナリオ (2016)

エスタディオ・プレシデンテ・ペロン(Estadio Presidente Perón)は、アルゼンチン共和国ブエノスアイレス州ブエノスアイレス大都市圏のアベジャネーダ市にあるサッカー専用スタジアム。「エル・シリンドロ(シリンダー)・デ・アベジャネーダ」、「エル・コロソ(巨人)」という呼び名も頻繁に使われる。所有者はラシン・クルブで、サッカー部門のホームスタジアム。モーツァルト通りとコルバッタ通り、コロン通りとディエゴ・A・ミリート通りに囲まれた場所にある。
設計を担当したのはドイツ人の建築士たちで、彼らは第2次世界大戦中に破壊された建造物を修復した技術と経験を豊富に持っていた。​彼らの仕事に敬意を表し、付近の通りに「ドイツ人通り」という名前が残っている。限界収容人数は66,000人であるが、アルゼンチンサッカー協会から出された安全性への懸念に基づき、緩衝地帯の分を差し引いた60,000人を公式収容数としている。それでもなお収容人数はリーベルのエスタディオ・モヌメンタル・アントニオ・ベスプチオ・リベルティに次ぐアルゼンチン第2の規模である。 全てのスタンドを屋根で覆ったアルゼンチン初のスタジアムであり、1990年代には夜間照明設備の強化も行われた。

特徴

ピッチサイズは105×70mで、アルゼンチンで最も競技規則が求める寸法を満たしている部類である。ひとつのスタンドに屋根の上に細長いオベリスクが付けられており、その頂上にはラシンのフラッグが掲揚されている。また別のスタンドには大型映像装置があり、試合のリプレイのみならずリアルタイムの映像も流す。
1階席とピッチの間には全スタンドに水を貯めた濠と高いフェンスが乱入防止用に設置されている。2004年に一度撤去されたが、安全性懸念が高まったことで再度設置された。
面白いことに、CAインデペンディエンテのリベルタドーレス・デ・アメリカ(左)は
プレシデンテ・ペロン(右)から300m弱しか離れていない場所にある。

歴史

1950年9月3日に開場した際の航空写真
ラシンのホームゲームの様子
建設プロジェクトは1944年3月24日に始まった。ラシンの首脳陣は、エスタディオ・コロン・イ・アルシーナの「30,000人」を上回る大観衆を収容可能な巨大新スタジアムとそれに必要な広い土地を手に入れ、名門クラブに相応しい競争力を取り戻すことを夢見ていた。この野望を一任された部署は、鉄道路線地帯に面していた30,000㎡もの広大なスポーツ向きの平野を買収し、新スタジアム建設に向けた重要な第一段階をクリアした。
一方で、数年後に最高権力者の座に上り詰める事になるフアン・ドミンゴ・ペロンは、ブエノスアイレス市中心部の交通の要衝レティーロ区に恰好のフィールドがあるとラシンに紹介してくれたのだが、彼の提案を受け入れることはアベジャネーダ市からのホームタウン移転を意味した。クラブ発祥の地を離れたくなかった首脳陣は、ペロンに丁重な断りを入れた。
スタジアム建設の費用集めは1946年初頭から始められた。同年8月には民間企業からの出資である程度目標金額に近い所まで来たが、これに加えて更に政府予算から300万ペソを借り入れることができたため、経済的問題はもはや完全にクリアされた。クラブの執行役員会は感謝の意を表すため、ペロン大統領、エバ・ドゥアルテ・デ・ペロン夫人、ラモン・セレイホ不動産省長官、フアン・アティリオ・ブラムグリオ外務省長官、ミゲル・ミランダ中央銀行総裁ら国家権力の中枢にいた要人達を、会費無用の名誉ソシオとして迎えた。当時の会長カルロス・パイロはそれだけに留まらず、あたかも新スタジアムが政府の経済援助あってこそ完成したのだと言わんばかりに、名称を「プレシデンテ・ペロン」にする決定を下した。
1946年(別の情報では1947年の記述もある)12月1日にラシンはエスタディオ・コロン・イ・アルシーナでの最後の試合を行い、CAロサリオ・セントラルに4-6で敗北した。その後すぐにコロン・イ・アルシーナは解体されたが、実は1904年から使っているこの場所こそプレシデンテ・ペロンの建設用地であり、スタジアムはほぼ同じ場所に完成して1950年9月3日にCAベレス・サルスフィエルドを迎えこけら落としが行われた。試合はリャミル・シメスの決勝点により1-0でラシンが勝った。
翌1951年にはブエノスアイレスで開催された第1回パン・アメリカン・ゲームスのサッカー競技会場に使用された。その閉幕後、昨年シーズン真っ最中の開場という慌ただしい中で省略されてしまった、オープン記念式典を挙行した。
1966年には2つの夜間照明塔が完成し、その記念にクラブはジーメンス社を冠スポンサーにFCバイエルン・ミュンヒェン(ヘン)を招いて親善試合「コパ・ジーメンス」を開催、試合は3-2でラシンが勝った。翌年にコパ・リベルタドーレス1967決勝に勝ち進んだラシンは、その第1戦でプレシデンテ・ペロンにウルグアイのナシオナルを迎え撃ち​、その後南米王者として出場したFIFAインターコンチネンタル・カップ/ヨーロッパ=サウスアメリカ・カップ1967第2戦では、UEFAチャンピオンズカップ1967を制した欧州王者セルティックFCとプレシデンテ・ペロンで対戦。グラスゴーのハンプデン・パークで喫した0-1の敗北を2-1の勝利で挽回(アウェイゴール制度は無かった)。さらに3日後に同じプレシデンテ・ペロンで行われた第3戦に1-0で勝ち、アルゼンチン勢初のクラブチーム世界制覇を成し遂げた。
1969年には、トルネオ・メトロポリターノ最終節を終えて勝ち点が並んだCAチャカリータ・ジュニオルスとリーベルの優勝決定戦を開催する中立地会場に指定され、チャカリータ初優勝(4-1で勝利)の舞台になった。またトルナオ・ナシオナル1976でも決勝戦の中立地会場に選ばれ、ボカがリーベルを1-0で下して優勝した。リーベルはプレシデンテ・ペロンで開催される優勝のかかった一発勝負に相性が悪い。1988年にはコパ・リベルタドーレス優勝経験を持つ南米各国の全13クラブで争われた第1回CONMEBOLスーペルコパ・スダメリカーナに、ラシンが1967年度王者の資格で出場。歴代南米王者を次々に下してブラジルのクルゼイロEC(1976年度優勝)との決勝戦へ進出した。第1戦はプレシデンテ・ペロンでラシンが2-1で勝利を収め、第2戦はクリチバのエスタジオ・ミネイロンで1-1のドローとなり、合計3-2でラシンが優勝した。
1992年度大会でもラシンは決勝に駒を進め、スーペルコパ・スダメリカーナ決勝第2戦会場となった。またもラシン対クルゼイロの顔合わせとなり、今回は第2戦会場がプレシデンテ・ペロンのため4年前よりも地の利があった。しかしミネイロンで行われた第1戦で4-0の大敗を喫してしまい、第2戦を1-0で勝っても焼け石に水で、合計4-1でクルゼイロが大会2連覇を決めた。
1993年にアベジャネーダの自治体当局者はプレシデンテ・ペロンの横を通る「クジョ通り」の行政名称を変更した。1991年に故人となった、ラシン・ボカ・アルゼンチン代表などでウイングFWとして活躍した1960年代の名選手、オレステス・オマール・コルバッタ氏の名前が通りにつけられ、以降スタジアムの正確な所在地を紹介する時は「モーツァルト通り(Google Mapの表記はディエゴ・A・ミリート通り)とコルバッタ通りの間」と説明されるようになった。
1995年には照明塔への通電力を改善する為に屋根の素材を金属製に替える事が決まった。1997年にこの工事が完了した時には屋根面積も拡張され、アルゼンチンで初めて4つのスタンド全てが屋根でカバーされたスタジアムが誕生した。
2002年にはテレビカメラ設置スペースの拡大、そして場内放送用スピーカーが新式に更新された。2004年にはピッチとスタンドを隔てていた乱入防止用フェンスが一部撤去されたため、該当スタンドに新しい最前列座席スペースが建設され、そこはタッチラインと至近距離になった。
2007年にはコパ・スダメリカーナ決勝第2戦の会場に選ばれた。メキシコのクラブ・アメリカと対戦するアルセナルFCが、国際大会の決勝に相応しいホームスタジアムを持っていないと判断された事が理由である(準決勝まではエスタディオ・フリオ・ウンベルト・グロンドーナでの開催が許されていた)。アルセナルはプレシデンテ・ペロンでの第2戦を1-2で落としたが、エスタディオ・アステカでの第1戦に2-3で勝利していたため、合計3-3・アウェイゴール3-2でアルセナルが国際大会初優勝を決めた。
2008年には前年度コパ・リベルタドーレスとスダメリカーナの王者が対戦するレコパ・スダメリカーナで、やはりアルセナルがホーム側の第1戦会場に使われたが、1-3でボカに敗北。ラ・ボンボネーラでの第2戦は2-2の引き分けで、合計5-3で前年度リベルタドーレス覇者のボカが優勝した。また2008-09プリメーラ・ディビシオン前期はリーグ最終節を終えてサン・ロレンソ、ボカ、CAティグレが勝ち点39の首位タイで並んだため、3クラブによる1回戦総当たりのプレーオフを開催する事が決まった。最後の第3戦はプレシデンテ・ペロンで行われ、ボカがティグレに0-1で負けて結局プレーオフでも3クラブが勝ち点3で並んだが、得失点差+1のボカが±0のティグレを上回り前期優勝を決めた。
プリメーラ・ディビシオン2014では、久々にこのスタジアムの主であるラシンが地元の観衆の前でリーグ優勝を決めた。王手をかけていたラシンは公式収容数の60,000人を越えて超満員のプレシデンテ・ペロンでゴドイ・クルスを1-0で破り、プロリーグ創設から通算8回目・アマチュアリーグ時代から通算で15回目の優勝を決めた。2016年8月14日の「コパ・デル・ビセンテナリオ・デ・ラ・インデペンデンシア(独立200周年杯)」では2014年シーズンのリーグ王者ラシンと、2016年シーズン王者のCAラヌースが1試合制で対戦する事になった。AFAによる公平な事前抽選で会場はプレシデンテ・ペロンに決まり実質ラシンのホームゲームであったのだが、しかし0-1でラヌースに敗れた。
2017年にはまた照明出力のアップデートが行われ、ヨーロッパのスタジアムにおける平均的な光度に近い水準に達した。

コンサート開催実績

アーティスト
Bandera de Argentina パトリシオ・レイ・イ・スス・レドンディートス・デ・リコータス 1998
Bandera de Argentina ラタ・ブランカ 2005
Bandera de Alemania ラムシュタイン 2010
Bandera de Reino Unido ジューダス・プリーストホワイトスネイク 2011
Bandera de Argentina ビエハス・ロカス 2012

情報源

Googleマップの衛星画像

前回:
なし
Flag of PASO.svg
第1回パン・アメリカン・ゲームス
サッカー競技会場

Bandera de Argentina ブエノスアイレス1951
第2回:
エスタディオ・オリンピコ・
ウニベルシタリオ

Bandera de México メキシコシティ1955

翻訳元最終更新日時
es.wikipedia:Estadio Presidente Perón 22:03 4 ago 2019‎ (UTC)