エスタディオ・リベルタドーレス・デ・アメリカ

スタジアムデータ

ラ・ドブレ・ビセーラ(1928-2009)の歴史

住所とラ・ドブレ・ビセーラ時代の席種別収容人数

現在のチケット席種別収容人数

2007年-2009年の大改修計画

新名称「リベルタドーレス・デ・アメリカ」(2009-)


スタジアムデータ

Estadio Libertadores de América
エスタディオ・リベルタドーレス・デ・アメリカ
Estadio Libertadores de America 2014.JPG
「ボチーニ・アルタ」(2階席)からの眺め
あだ名 La Caldera del Diablo(悪魔の灼熱地獄)
La Garganta del Infierno(地獄の入り口)
El Castillo del Rey(王様の城)
Doble Visera(双子の日除け/※旧正式名)
所在地 Bandera de Argentina ブエノスアイレス州アベジャネーダ

地点

34°40′13″S 58°22′15″O座標
34°40′13″S 58°22′15″O (地図)
所有者 クルブ・アトレティコ・インデペンディエンテ
技術詳細
ピッチ 天然芝
収容人数 52,300人
建設情報
費用 約80,000,000米ドル
開場 1928年3月4日 (91歳)
手術 2009年10月28日まで (9年間)
一時的解体 2007年7月
設計集団
建築士団 エセキエル・ドラード氏と彼の部下
ホームチーム
CAインデペンディエンテ
イベント
南米選手権1929
コパ・リベルタドーレス決勝: 1964196519721973197419751984
FIFAインターコンチネンタル・カップ: 1964196519721974
コパ・インテルアメリカーナ1973決勝会場
スーペルコパ・スダメリカーナ19941995決勝会場
コパ・スダメリカーナ20102017決勝会場
  レコパ・スダメリカーナ2011レコパ・スダメリカーナ2018
決勝会場
 
エスタディオ・リベルタドーレス・デ・アメリカは、アルゼンチン共和国ブエノスアイレス州アベジャネーダにあるサッカー専用スタジアム。CAインデペンディエンテが所有するホームスタジアムで、1928年3月4日に完成した。ラテンアメリカで最初、世界全体で2つ目の鉄筋コンクリート製建造物である。老朽化が原因で2007年にスタンドの大部分を解体された後、約2年後の2009年10月28日のCAコロン戦から、セメント製の新しいスタンドを得て復活した。「ラ・ドブレ・ビセーラ」という旧正式名称(2009年のリニューアルオープン前まで)で呼ばれる事も多い。これは「一組のサングラス」「一組のヴァイザー」「一組の日除け」等を意味し、今ではもう正式に使われていない言葉である。2019年現在その屋根自体が大改修工事を経て無くなっており、むき出しの2階が1階の屋根代わりになっている程度。

「ラ・ドブレ・ビセーラ」の歴史

2007年の一時閉鎖前のラ・ドブレ・ビセーラ。
全ては1925年11月6日に始まった。自前のスタジアムを手に入れようとするCAインデペンディエンテは「アルシーナとコルデーロ(現リカルド・エンリケ・ボチーニ通り)の両道路間に新スタジアム建設用地を購入する事でクラブ内部の意見が統一された」、と一般に伝えられている。ラシンのエスタディオ・コロン・イ・アルシーナが建っていた場所から至近距離であった。面積6ヘクタール、農耕地のようにやわらかな土壌で芝がよく生い茂っている土地が見つかり、当時インデ経営陣に有能な出向役員を貸し与えていたサンティアゴ・イ・フアン・ラビスタ社がクラブ内部で発言力を確立する、より具体的に言えばソシオ選挙の「票田」を固めたい意図もあって、会社本体が買収交渉を仲介した。インデ経営陣のフアン・R・ミグナーブル博士は同社の案を徹底的に精査し、そしてアレハンドロ・ガライコエチェアは交渉の主導権および買収が成功した際の明文契約の権限さえも彼らに無償で委ねることに決めた。この時点においてスタジアム建設用地の取得作業は経営陣の手から離れたと言える。
一刻も早く自前のスタジアムが欲しい焦燥感に駆られたクラブ首脳陣は、基礎工事の障害となっている「オアコ貯水槽」からとりあえず一時的に水を排出する事にした。1926年、貯水槽に水を戻した時にスタジアム建設作業が始まった。世間の大多数の人々は木造スタンドが圧倒的に主流だった時代の常識感から、セメント製スタジアムの建設など無理だろうと考えていたが、しかし1928年3月4日にそれは完成した。最初の一般公開試合はウルグアイのCAペニャロールとのエキシビジョンマッチで、2-2の引き分けだった。
ラシンのスタジアムから僅か300m弱の距離にあるインデのスタジアム。
だがスタジアムは1960年に多くの問題が噴出し、応急処置の改修を行わなければならず、これはクラブ財政の重い負担になった。例えば西側スタンドの「日除け」(ビセーラ=小規模な屋根)、座席、パルコ席、ラジオ放送ブース、乱入防止用の溝、スプリンクラーの設置など、肝心のスタジアム内部は設備があまりにお粗末だったのである。一連の不足設備の工事が完了した1961年8月20日、ホームにラシンを迎えたインデは4-0で完勝した。1960年末に「エルミニオ・サンデ」、通称「コルデーロ」(後ろにある道路の旧名)と呼ばれる新スタンドが建てられた。約4半世紀ものあいだ立見席であったが、1994年に椅子席の取付工事が行われている。このスタンドは今日では1階がトリブーナ・ボチーニ・バハ(下層)、2階がトリブーナ・ボチーニ・アルタ(上層)と名付けられている。ここは2007年の老朽化したスタンドの解体時にも唯一取り壊しを免れた。2009年に2度目の改修工事が完了した時には、コルデーロは以前より快適で歩き回りやすいスタンドに改修されていた。
しかしながらドブレ・ビセーラは、施設の慢性的不備を抱えながらもインデペンディエンテの偉大な試合を目撃し続けてきた。ペニャロール、ナシオナル、ウニベルシタリオ、コロ=コロ、サンパウロFC、ウニオン・エスパニョーラ、グレミオを下して優勝した7回のコパ・リベルタドーレス決勝戦、1960年代のアルゼンチン勢初優勝を含む2連覇と1970年代の4連覇。インテルナツィナーレ・ミラノ、AFCアヤックス、アトレティコ・マドリー(欧州王者バイエルンの辞退による代理出場)らと、クラブ世界一を賭けて対戦したFIFAインターコンチネンタル・カップ。1994年と1995年のスーペルコパ・スダメリカーナ連覇。しかしながら、インデが初めて世界一となった1972年のインターコンチネンタル・カップ、対ユベントスFC戦(アヤックスの辞退による代理出場)はローマのスタディオ・オリンピコでの1発勝負であったため、ドブレ・ビセーラは歴史的瞬間に関与できなかった。また選手個人にスポットを当てると、ドブレ・ビセーラは20世紀のワールドサッカーを代表する指折りのスーパースターが、公式戦の対戦相手として乗り込んできた場所である。国内リーグで対戦したアルヘンティノスのディエゴ・マラドーナとリーベルのアルフレッド・ディ・ステファノ、コパ・リベルタドーレスで対戦したサントスFCのペレ、インターコンチネンタル・カップで対戦したアヤックスのヨハン・クライフ。もし1975年にUEFAチャンピオンズカップを連覇したバイエルンが欧州王者としてのインターコンチ出場を辞退しなければ、この顔ぶれへ更にフランツ・ベッケンバウアーも加えることが出来ただろう。
また、ラ・ドブレ・ビセーラは有料入場者数最多記録が生まれた場所でもあった。1954年8月15日のボカ戦では過剰に発行した前売り62,000枚のチケット完売で記録がまず生まれた。その後インデのソシオが「入場料を支払わずに」観戦した結果スタジアムは推定約70,000人前後の大観衆で膨れ上がり、試合も3-1でボカを下した。インデが作った1954年の国内記録は、あろうことか2部リーグの試合においてCAティグレとCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロによって破られた。「エル・シクロン」はリーベルのモヌメンタルでティグレとアウェイゲームを戦い、昇格争いの行方もまだ見えないリーグ序盤の第6節で、ほぼ9割方がサン・ロレンソのインチャである70,000人の「有料」入場者を集め、インデの記録を破った。
2006年12月8日、スタジアムはしばしの眠りにつくことになった。大規模改修工事による閉鎖前のラストマッチにおいてインデはCAヒムナシア・イ・エスグリマ・デ・フフイを迎え撃ったが、1-2で負けた。「旧」ドブレ・ビセーラにおけるインデ最後の得点者となったのは、若手のフェデリコ・ゴンサレスだった。

ラ・ドブレ・ビセーラの名前でのラストマッチ

住所とラ・ドブレ・ビセーラ時代の席種別収容人数

住所: Ricardo Bochini (ex Cordero) 751/83 esquina Alsina - Avellaneda, Provincia de Buenos Aires, Argentina.

席種の名前 収容力
Platea Alta Visera 5,967
Platea Baja Visera 5,554
Platea Alta Cordero 5,900
Platea Bandeja Cordero 3,490
Socios Vitalicios 1,389
Popular Visitante 16,000
Popular Local 15,000
Oficial Socios 14,436
Prensa 289
トータル 53,000
日本語の意味
Platea Alta Visera = ビセーラ2階椅子席
Platea Baja Visera = ビセーラ1階椅子席
Platea Alta Cordero = コルデーロ2階椅子席
Platea Bandeja Cordero = コルデーロ1階ブロック椅子席
Socios Vitalicios = 終身ソシオ
Popular Visitante = ビジターゴール裏
Popular Local = ホームゴール裏
Oficial Socios = 非終身ソシオ
Prensa = 記者席

現在のチケット席種別収容人数

この表はエリアではなくチケット席種ごとの収容人数。2017年5月時点の収容人数は、約50,595人。トリブーナ(立ち見ゴール裏)の方角と、ホーム・ビジター区分は下表の説明のとおり。北ゴール裏は2階だけ座席設置がなされている。ボチーニは東側、エリコは西側の座席付きスタンド。2019年7月に行われた試合のチケットの値段(公式サイト一覧表)はエリコの方がボチーニより高いので、Jリーグで言うメインスタンドにあたる。エリコの1階には選手入場口「悪魔の喉(Garganta del Diablo)」を至近距離で見られる席種があるためと思われるが、一方でボチーニの最前列手前には両チームのベンチがある。パルコスはコーナー部分にある5階建てスタンドの高価格帯席種で、「パルコス・ボチーニ」が東側両コーナー、「パルコス・エリコ」「パルコス・ノルテ」が西側コーナーのパルコスタンド。価格は毎試合ごとに発表されるフレックス制で、その他のスタンドにも「一般」「年間予約」「ソシオ」「招待」「〇歳以下の児童無料」など細かい区分がある。
チケットの席種 収容人数
Platea Erico Baja (19列) 4,268
Platea Erico Alta (21列) 4,683
Palcos Erico 984
Palcos Norte 345
Palcos Bochini 1,200
Platea Bochini Baja 3,600
Platea Bochini Alta 4,292
Platea Norte Alta (20列) 3,128
Gargantas 1, 2, 3, 4 3,059
Tribuna Norte Baja 最大限界10,056 (通常時9,000)
Tribuna Sur Baja 最大限界10 056 (通常時9,000)
Tribuna Sur Alta 最大限界6,856(ビジター人数と緩衝地帯に応じ変動)
Prensa 180
合計 最大限界52, 777 (通常時50,595)

 

2007年-2009年の大改修計画

2005年末、フリオ・コンパラーダ会長はCAインデペンディエンテの「歴史を尊重した新しいホームスタジアム」建設計画を発表した。この計画に実現性を与えたのは、セルヒオ・アグエロをアトレティコ・マドリーに売却して得た約2300万ユーロの移籍金収入である。その1か月後には完成予想図をCG動画で公開し、インチャ達の期待は高まった。ところがその計画通りの新スタジアム建設には上述の2300万ユーロでも追いつかない、巨額の予算が必要であることが後に判明。やむなく、より安上がりな「第2計画」について研究と検討を重ねた。それは、ラ・ドブレ・ビセーラの老朽化した部分を解体しコンパクトで管理しやすいスタジアムへ縮小するというプランだが、できれば選びたくないオプションであった。
その後オスカル・ウスタリの売却で800万ユーロの収入を得た。これを受けてクラブは第2計画を一部改変し、最終的に「第3計画」に辿り着いた。2007年半ばにそれはメディアに公式発表された。同年内にラ・ドブレ・ビセーラのスタンド解体作業が完了し、新たに基礎部分から3つのスタンドの建設が着工された。9月に始まった土台作りは12月に終わり、そこからスタンド基底部の成型が始まった。

新名称「リベルタドーレス・デ・アメリカ」

インデペンディエンテが宿敵ラシンのプレシデンテ・ペロンを暫定本拠地として使っていた苦悩の時期に、自分達のコパ・リベルタドーレス最多優勝記録7回という実績を誇るに相応しい名前がラ・ドブレ・ビセーラにつけられた。それが現正式名称「リベルタドーレス・デ・アメリカ」である。ストラクチャーはイギリスの古風なフットボール専用スタジアムに着想を得た4つの2層式屋根なしスタンドに、コーナー部分4か所にパルコスタンドを新たに建て、フィールドを長方形できつく囲んだものである。コーナースタンドは「4つの悪魔の喉笛」と名付けられ、椅子席は最新のものが発注された。改修の実費用は5000万米ドルと試算されていたが、前述のアグエロとウスタリの移籍金収入だけではカバーしきれない額である。そして後にヘルマン・デニスの保有権100%を800万米ドルでSSCナポリに売却し、選手移籍金収入による工面は何とか目途が立った。
非公式なイベントマッチによる開場は2008年11月25日で、もう観客が入ってもよい状態になっていた。なおこの試合はクラブの会長選挙告知の前座であった。それから約11ヶ月後の2009年10月28日に公式戦が開催され、古いセメント素材の部分はほぼ完全に解体されていた。CAコロンを迎えて行われたリーグ戦はアンドレス・シルベーラの新本拠地ファーストゴールとなる先制点、イグナシオ・ピアッティの2ゴールでインデが3-0と勝利した。入場料収入は900,000ペソだった。この時点でも工事が100%完了してはおらず、はっきり言えば工事は明らかに遅延していた。
2014年3月、プラテア・ボチーニ・アルタ・スル(東側スタンド2階南方座席ゾーン)の収容能力が従来よりも高い1,785人になった。同年8月30日にはボチーニ2階北側ゾーンもまた2507人まで拡大した。これは2014年シーズンのクラシコ・デ・アベジャネーダに備えての事である。未完成状態でリニューアルオープンしたため当初収容人数が少なかったが、このクラシコの際には「48,069人」に達した。2016年12月18日のCAバンフィエルド戦で、工事未完了により閉鎖されていたボチーニ1階が最新の椅子席を得て開放された。こうして2007年から始まった建設作業は2010年代後半に入ってようやく終了し、未完成だった最後の「喉」がそろった。

情報源

  1. «Independiente cambia nombre de su estadio a Libertadores de América» Archivado desde el original el 7 de octubre de 2014
  2. «Copia archivada». Archivado desde el original el 16 de octubre de 2013
  3. «Estadio Libertadores de América» Club Atlético Independiente Archivado desde el original el 14 de noviembre de 2012
  4. Meltzer, Demian; Bravo, Martín (26 de noviembre de 2008) «El Teatro de los Sueños» Diario Olé
  5. Redacción TN (13 de marzo de 2014) «Independiente estrena su nueva tribuna: la Bochini Alta Sur» Todo Noticias
  6. «Habilitaron la Bochini alta | El Gráfico | Tiempo Argentino» 5 de febrero de 2016
  7. Martella, Santiago (16 de diciembre de 2016) «Misión cumplida: Independiente inaugura su estadio completamente terminado» Todo Noticias
  8. «Récord en el Libertadores» Diario Olé
  9. «Obras» EstadioLDA

 

リベルタドーレス・デ・アメリカに関係するサイト集

 


翻訳元最終更新履歴
es.wikipedia:Estadio Libertadores de América ‎16:42 31 jul 2019  (UTC)