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ウルグアイサッカーの盟主論争
(Decanato en El Fútbol Uruguayo)

ウルグアイサッカーの盟主論争とは、主にクルブ・ナシオナル・デ・フットボールとCAペニャロールのインチャ、評論家、歴史家の間で20世紀中盤頃から続いている、ペニャロールの創設年に関する論争。ウルグアイ国民の間でのみ過熱している歴史認識論争で、外国人にはその存在が長年知られていなかった。いずれの陣営も自己の主張を決定的に裏付ける一時資料や物的証拠が少ないため、結論が出ないまま延々と議論が続いている状態にある。争点はペニャロールの真の創設年が前身とされているクラブの創設年「1891年」で正解なのかどうか、という事にある。従来の定説が覆った場合、ウルグアイ1部の最多優勝クラブやスーペルクラシコ対戦回数の記録など、複数方面に余波がおよぶ。

 

盟主論争

盟主論争の発端は、突き詰めると「CAペニャロールの真の創設年月日はいつなのか?」という問題に帰結する。ペニャロールのクラブ公式見解は、海外で広く知られているものと同じで「セントラル・ウルグアイ・レールウェイ・クリケット・クラブ(以下CURCC)として1891年9月28日に誕生した」というもの。これに対し反対派の評論家とナシオナルは「CURCCがそのままペニャロールになったというのは捏造であり、両者は分裂しペニャロールという全く新しいクラブが1913年12月13日に誕生したというのが史実だ」と結論付けているが、ペニャロールはこれを決して認めようとしない。なおナシオナルは1899年5月14日創設で、これはどちらのクラブの歴史がより古いかというプライドをかけた論争でもある。

「歴史の長さ比べ」に関してよく話題になるのが1891年6月1日創設のアルビオンFCである。ウルグアイサッカー協会(AUF)に加盟した日付も最古であり、彼等をウルグアイ最古のサッカークラブと考えれば「最古のクラブはどこか」という論争はそれ以上続かないはずだが、しかしアルビオンが他のクラブと合併を繰り返し、活動記録が途絶えていったために、ナシオナルとペニャロール間の歴史論争に組み込みべき存在なのかどうかという点は常に疑問符が付けられている。なお、ペニャロールもアマチュアリズム規定違反等の事情により一時AUFから離脱していた時期があった。

次に論点となるのが「ウルグアイサッカー協会主催で行われた正式な1部リーグで最も多く優勝しているのはナシオナルとペニャロールのどちらなのか?」という、獲得したタイトル数の盟主論争である。AUFは1900年に創設され、ナシオナルは同年中に加盟した。ペニャロールは1922年から1926年にAUFを離脱しており、当然この時期に何らかのタイトルを獲っても歴代優勝回数にカウントされるべきではない。ナシオナルの主張が正しければ彼らはウルグアイ最古のクラブであり、最も早くから競技規則に基づいた正式なサッカー活動を行っていた盟主になる。

 

したがってペニャロールは1891年9月28日に誕生したCURCCと現在の自分達の直接的連続性を証明しなければ盟主たりえないわけだが、「ペニャロール生誕以前の20年間においてモンテビデオ・クリケット、モンテビデオ・ローイング、アルビオンといった諸団体に属していた、或いはまた新たに結成されたそのような名前の団体が...」という旨の説明をしており、これではペニャロールはCURCCを母体に「分裂した」のか、CURCCの歴史を引き継いだ同一の存在なのか、分かりづらい曖昧な表現ではある。

歴史認識問題

ウルグアイのプリメーラ・ディビシオンは1900年に産声を上げた。その初年度にCURCCは参加しており、翌年度にナシオナルが加盟した。両クラブは当時すでにAUF傘下のアマチュアリーグで2大勢力に近い実力を誇っていた。ナシオナルがクリオージョのクラブを自負するのに対し、外国資本のスポーツクラブで多くの外国人選手が所属していたCURCCは「カピタリーノス(資本家)」「ウニベルシタリオ(大学者)」と呼ばれた。CURCCは経営者と選手に英国人が多く、モンテビデオ北東端の区ビジャ・ペニャロールに本社と活動拠点を置くセントラル・ウルグアイ・レールウェイ社の鉄道労働者のためのスポーツクラブであった。

1910年代に入ると、CUR社スポーツクラブの経営者達は「本格的な」サッカー部門の活動からの撤退を模索するようになったが、これは単に従業員の福利厚生の枠を超えるほどの負担が原因とされている。サッカー部門のための本部事務所やホームスタジアムの必要性 - サッカーに集まる観客の増加が原因だった - や、これを持たないCURCCに対する観客のクレームを生じさせた。彼等はCUR社の鉄道で試合に向かう際に、車両を傷つけたりして抗議した。CURCCサッカー部門のソシオ集団は、会社に雇われている者(クラブの方針に発言力や投票権を持った)、会社に雇われていない者(クラブに影響力を持たなかった)、そして「カルボネーロ(石炭売り)」と呼ばれた分派などに分かれてそれぞれ抵抗を試みた。

1913年の末に本社から次のような決定が下された。

  • 本格的サッカー競技をしたいソシオは新しい名前のクラブを作りなさい。

  • またはCURCCから離脱し新しい名前で別のクラブを作り活動しなさい。

翌1914年にAUFは「クルブ・アトレティコ・ペニャロール」を、CURCCサッカー部門が離脱した枠を引き継ぐクラブとしてリーグに加盟させた。これが「ペニャロール」という名前の初出であるが、クラブの構成員はCURCCサッカー部門と全く異なっておりビジャ・ペニャロール区内のCUR本社施設と別の場所にホームスタジアムを持った。同年4月13日、内務省はCAペニャロールに法人格を付与したが、これはCUR社の正式発表よりも早かった。「CURCCからの歴史的連続性と同一性」の支持論者は、​ 一連のプロセスにおいてペニャロールがCURCCの協会とリーグの会員資格を引き継いだ点から、両者の歴史に一貫性を見出している。対して反対論者は「ペニャロールによって捏造された架空の歴史であり、AUF加盟資格と法人格を混同している。実際に内務省長官パブロ・バルシが残した公文書には、ペニャロールがCURCCの法人格を直接継承したという記述は無い」としている。

歴史認識論争の拡大経緯

ペニャロールがAUFに加盟した当時、まだナシオナルはCURCCからの「歴史的連続性」に対して特に文句をつける姿勢は見られず、それどころか1916年にはナシオナル首脳陣が「貴クラブの結成25周年に」祝辞を送っており、CURCCと同一の存在として認知していたことが窺える。ただ両者のライバル関係が時代を下るごとに苛烈なものになっていくと、優勝回数や歴史の長さを比較する議論の延長上に「ペニャロールの創設年問題」が浮上した。

ウルグアイの国内紙エル・パイスは、1941年にペニャロールがクラブ生誕50周年記念式典を開催した際に、恐らくマスメディアの中では最初に「創設年を間違えているのではないか」と指摘した。1957年から1958年にかけてペニャロールはそれまで明文化していなかった創設年をはっきり「1891年」と規定し、これを政府は黙認したが細部に至る検証をしなかった。そのためペニャロールは自分達を法人として認可している国家が、1891年説を肯定したと解釈するようになったのである。 1958年12月23日、国務委員会はCAペニャロールについて「1914年から1958年にかけて起こった8つの事例に照らし合わせて、彼等の法人格は継続する」とした。これはあくまでも1914年の決定を追認しただけで、それ以前の歴史には触れていない。

 

1951年に隣国アルゼンチンのタンゴ歌手フリオ・マルテルは「ナシオナル」という曲を発表した。その中には次のような歌詞が含まれている。

"Nacional sos el decano, el primero y el más grande"
(ナシオナル君たちこそ盟主だ、最高で最大だ)

以降今日に至るまで盟主論争は長い時間をかけて拡大していった。1991年にペニャロールがクラブ設立100周年の式典を挙行した際、ナシオナルは歴史調査、数値的資料、議論と結論をまとめた「デカーノ・デル・フトボル・ウルグアージョ」というドキュメンタリーフィルムを公開して、冷や水を浴びせた。これまでナシオナルは歴史家・評論家・メディア、そしてインチャ達が何を言おうとも、クラブとして公式にペニャロール創設年問題に意見を述べた事はなかったが、この時を以て完全に対決姿勢を露わにしたのである。それはペニャロールに対してだけではなく、創設年問題を詳しく検証しないウルグアイ政府や、無関心な国際社会と海外サッカーメディアに対する怒りの表明でもあった。ペニャロールはドキュメンタリーに対して公式に反応をしなかったが、ナシオナルの主張を否定するために多くのペニャロール寄りの歴史家・評論家達が非公式な反撃を開始し、論争は過熱した。

 

1999年、ナシオナルはコレオ・ウルグアージョ(国立郵政局)のイベントの一環としてクラブ設立100周年式典を行った。郵政局長ウィンストン・カサールは、「ペニャロールが前にこれと同じことをしましたが、しかし彼らの場合厳密に言うと設立100周年に満たなかったはずです」とコメントし、9年前にペニャロールのクラブ設立100周年記念スタンプを作った事は誤りだったとも述べた。

各クラブの立場・見解

ナシオナルの立場

ナシオナルはクラブとして公式的に、CURCCとペニャロールの歴史的連続性を全否定する立場をとっている。CURCCが本格的なサッカー活動の存続を打ち切ろうとしたときに、CUR社の被雇用ソシオと部外ソシオの鉄道労働者たちが、1913年12月13日にサッカーのための新しいクラブを作ったとする考えである。CURCCは以降プリメーラ・ディビシオンに出場しなかった事は明らかで、テンフィエルドによると1913年に解散したとのことである(出典)。1915年解散とする記述の方が圧倒的に多い。

1991年にナシオナルはウルグアイを代表する法律家、歴史家たちによって編纂された調査レポート「エル・デカーノ(真の盟主)」を発表した。レポート編纂の協力者の中には元副大統領で法学博士のエンリケ・タリーゴも名を連ねている。レポートの内容は以下の9項目。

  • 1.ほとんどのスポーツクラブと同じくCURCCもソシオ制度をとっていた。その中には議決権を持つCUR社従業員ソシオ、議決権を持たない社外ソシオがいた。 

  • 2. 1913年6月2日、CURCCの会議で行われた投票において25対12でクラブ名を「CURCC (Peñarol)」に改名する案が否決された。つまり議決権を持つソシオは純粋な社員福利厚生としての水準以上のサッカー活動(1891年から1900年までの状態と同じように)に反対の立場であり、議決権を持たない社外ソシオはより本格的にサッカーに打ち込める環境を求めており、両派は決裂した。

  • 3. 1913年12月9日に議決権を持たない社外ソシオが残した文書記録によれば、CURCCの経営陣は「本格的にサッカーに打ち込む為に作られたクラブに対し、我々は関知しない」という内容の記述をしている。また「生まれてくる新しい心臓(セントロ)」という表現を用いて、福利厚生活動以上のサッカー環境を求める者達が新しいクラブを作ったが、それは自分達CURCCから独立した別個の存在だと断言した。そして最後に「成功が長く続くことを期待している」とも付け加えた。

  • 4. 1913年12月13日に、ほぼ全員がCURCCの親会社に雇用されていない30人のソシオによってCAペニャロールは創設された。既存のクラブと同一の存在ではなく、ペニャロールという存在が新たに誕生したのは確定的事実。この30人がCURCCに対し評議権を持たない立場の者だったのは、ペニャロールが分派である事の裏付けとなる。

  • 5. CAペニャロールの経営陣は1913年12月13日に初会合を開き、「ソシオ登録手続き」「クラブ規約と法的地位の確立」について話し合った。これは新しいクラブを結成しようとしている事の証左になる。CURCCを引き継いだ存在で名前だけ変えた存在がペニャロールなのだとしたら、ソシオ登録手続きを行ったり、規約と法人格の必要性を話し合ったりするのはおかしい。

  • 6. ペニャロール結成後もCURCCは社員福利厚生のためのサッカー部門の活動を続けた。これは当時のメディアの報道記事に記録されており、1914年中ずっと続き1915年1月22日の記述を最後にCURCCサッカー部の報道は途絶えた。少なくとも、約1年半にわたり2つの異なるサッカーチームは並行して存在しており、両者は歴史的につながっていない。

  • 7. ペニャロールが1914年4月13日に法人格を取得した事実は社会観察庁と公共事業監督庁の文書記録に残っている。新しく誕生した団体に対する許認可手続きで、CURCCを改組したと受け取れる記述はどこにも見つからない。

  • 8. CURCC解散時にクラブに残っていた財産約600ペソはブリタニコ病院に寄付された。もしペニャロールが「名前を変えただけのCURCCの後継クラブ」だとするならば、母体の財産や資産がペニャロールに継承されないのは不自然。

  • 9. ペニャロールの1957-1958年の歴史認識改定の際に、ウルグアイ政府が「彼等の明文化された創設年の記述は、その起源と一致しているとは言えない」と判断した。

 

ユニフォームや公式スローガンに「盟主」を使うナシオナル

 

1913年説が真実であればナシオナルは19世紀中にAUFに加盟した唯一のクラブであり、現存するウルグアイ最古のクラブ(盟主)という事になる。ナシオナルのユニフォームには「盟主」という一語が刻まれており、クラブのニックネームにもなっている。ただ当然の問題として彼らが優勝回数や歴史の長さで真に盟主であるのか、懐疑的な見方をする者はいる。「デカーノ・デル・フッボル・ウルグアージョ」に出てきた内容はクラブの公式会誌や内部文書にも普通に使われている。

アディショナル・インフォメーション

以下はナシオナルが「CURCCとペニャロールが同一の存在ではない」という事を裏付けるために調査した結果、判明した事実である。

  • 1913年12月13日から1915年1月15日までCURCCとペニャロールの会長は違う人物が務めていた。 CURCC会長ペドロ・セグフィエルドは、クラブに雇用されていない者は経営陣に入るべきでないという従来の方針を変えようとしなかった。しかしこの方針を巡る議論を付ける事さえもせず、前言を撤回している。CURCCの1913年11月3日の議事録に次のような記述が残っている。

La sub Comisión encargada de entrevistarse con el Sr. Sedgfield, con el fin de que dicho señor retirara su renuncia de presidente, manifiesta haber cumplido su cometido, estando dispuesto el Sr. Sedgfield a volver a la presidencia, siempre que no se volviera a tratar reformas en el Reglamento, sobre entrada de no empleados a la Comisión. Después de un cambio de ideas, es aceptada su proposición.
「副委員会はセグフィエルド氏から直接意見を聞かねばならない義務を負ったが、しかし彼はこの問題にはもう関与したくないと告げるばかりで、一方的に会長辞任を申し出てしまったのである。一度会長によって決定が下された以上、それは受け入れざるを得なかった」

同年12月13日にCAペニャロールが結成されると、会長にホルヘ・クルロウ氏が就任した。CURCCは解散までビジャ・ペニャロール区に残り、ペニャロールはモンテビデオ市内に拠点を置いた。ビジャ・ペニャロールがモンテビデオのバリオになるのはまだ先の話である。

  • 1914年4月、CURCCの会長ペドロ・セグフィエルドは親会社に手紙を送りビジャ・ペニャロール区で本格的なサッカー活動を継続することに不便が多く、それでもサッカーをやり続けたい者には別のクラブを作って出て行ってもらった、という状況を伝えている。

 

«Informo a usted que, recientemente, el Central Uruguay Railway Cricket Club, que desde hace algunos años ha estado dedicado casi exclusivamente a la práctica del football, se ha disuelto el elemento football formando otro club con sede completamente alejada de Peñarol.»
「申し上げますと、ここ数年というものセントラル・ウルグアイ・レールウェイ・クリケット・クラブは、実践的フットボールに傾斜して活動してきたわけですが、この部門は廃止されビジャ・ペニャロール区から隔絶された場所にて、フットボーラー達には別のクラブと事務所を構えてやっていただくという結果になりました」

—Pedro Segfield
  • CURCCとペニャロールは同じ日に試合をした記録がある。1914年4月、CURCCは1日のうちにリベーラ区の3つのクラブの連合チームと対戦し、同年7月14日に別の試合をした日にも、やはりペニャロールが別の場所でウニベルサルと試合をしたことが記録されている。7月にペニャロールがウニベルサルと再度対戦した時、CURCCはクルブ・パトーリアとビジャ・ペニャロール区で試合をしていた。

  • 1915年、CURCCはブリタニコ病院に財産を寄付した。病院の年次報告書には次のように記録されている。

«La hermosa suma de $ 697,58 ha sido recibida de los Residentes en Peñarol, socios del Central Uruguay Railway Cricket Club, cuya suma corresponde a la liquidación de los bienes de este club.»
「病院はペニャロールの役員とセントラル・ウルグアイ・レールウェイ・クリケット・クラブのソシオから69,758ペソを寄付された。それはCURCCの金庫に残っていた全財産の整理だった」

なおCURCCは1915年末の消滅後、残った資産をペニャロールに寄付した。

 
  • CURCCの英国人主将「ギジェルモ」ことウィリアム・デイヴィスは、CURCCの公式戦ファーストゴーラーでもあった。彼はペニャロールのカンペオナート・ウルグアージョ初シーズンであった1914年シーズンに、チームメイトとして合流しなかった。シーズン途中にCURCCが離脱しペニャロールがその枠を引き継いだからである。つまりデイヴィスの不在は、両者に歴史的連続性が無いことを証明する1つの状況証拠になる。デイヴィースは1915年末にCURCCの解散と共に現役を引退している。

  • CURCCの経営陣はペニャロールの誕生時、「新たな心臓が生まれている」「成功が長く続くことを期待している」というメッセージを手紙で贈った。

«llevando adelante este nuevo plan, que a no dudarlo será de fructíferos resultados para el nuevo Centro a constituirse...
...a la nueva autoridad que ha de constituirse, deseándoles muchos años de vida como también de gloria deportiva.»
「この新たな計画が前進する事は、疑いなく実り多き結果をもたらす新たな心臓が生まれる事である。それを指導する新たな指導部に対して、スポーツ的成功がまた長く続く事を期待している」

  • 1939年、ペニャロールはクラブの公式歴史文書を改訂し「1891年9月28日から1914年4月13日まで我々はセントラル・ウルグアイ・レールウェイ・クリケット・クラブ・ペニャロールという名称であった」という記述を追加した。1913年のペニャロールの最初の役員会合では「クラブの地位と規約を明らかにすること」と謳われているが、しかしCURCCとの歴史的関係性をどう説明するべきか、15年以上も放置されたままだった。それが突如このような大胆な解釈に変わったのである。CURCCの正式名称に「ペニャロール」は含まれておらず、この歴史認識には政府も対応に苦慮した。

«La aprobación del texto presentado no implicará reconocimiento oficial alguno respecto de la antigüedad y orígenes del Club Atlético Peñarol».
「ペニャロールがこの度明記した文書を認めたという事は、(政府として公的に)CAペニャロールの歴史及び起源について肯定した事を意味するわけではない」

  • CURCCのユニフォームは、1915年の解散までオレンジと黒のハーフだった。ペニャロールもこれを採用したが、後にクラブ会議で中止されオレンジではなく「金色」に変えられた。クラブ公式旗ではCURCCが左上にエンブレムを配置したが、ペニャロールはその左上の部分に11個のオレンジ色の星を配置している。

ペニャロールの立場

ペニャロールはあくまでも自分達の歴史が1891年9月28日設立のCURCCから直線的に続いているものであり、両者は完全に同一の存在であるという公式見解を曲げない。そのためナシオナルや「デカーノ・デル・フッボル・ウルグアージョ」の作成に参加した法律家・歴史家達の認識と大きなズレが生じている。ただ部分的に、モンテビデオ・ローイング、モンテビデオ・クリケット、アルビオンFCなど具体的な名前を出して、AUF加盟のサッカークラブ以外に話を広げれば、自分達より歴史の古いスポーツクラブがあったと認めている。またナシオナル側の歴史認識と大筋で一致している箇所もある。これまでクラシコの乱闘事件などが裁判沙汰になった事例はあるが、この歴史認識問題に関して今のところ両クラブとも法的な場に持ち込んだことは一度もない。

1913年までに、CURCCはウルグアイにおいて最も重要かつ人気の高いサッカーチームの一つになっていた。だが英国資本の親会社は、ウルグアイ人たちのサッカー熱の高まりによって試合がしばしば荒れ模様となり、場合によっては企業イメージを悪化させかねないという懸念からサッカー競技からの撤退を検討しており、いわば子会社であるCURCCはその意向に逆らう事は出来なかった。クリオージョのCURCCファン達はこのクラブを企業論理に依存した状態から「民主化」させようと考え、CUR社に雇用されていない社外ソシオもクラブ経営に参与できるような新たな体制作りとして、"CURCC Peñarol"という名称に改名した。

1913年6月、CURCC経営陣の会議でこの改革の流れは拒絶された。最終的に同年11月15日、「会社側と関係ない団体であれば」という条件付きでCURCCはサッカー部門の存続をクリオージョのファン達の手に委ねた。12月13日にサッカー部門は正式にCURCCから独立したが、その時点における名称は "CURCC Peñarol" であった。1914年3月12日に彼等はリーガ・ウルグアージャからの承認を得て名称を Club Atlético Peñarol に変更し、4月13日にウルグアイ政府から法人格を与えられた。

 

ペニャロールが公式に認めない事柄

Team Peñarolという名前が書かれているCURCCサッカー部の写真(1905年)

ペニャロールは「CURCCからの歴史的連続性および同一性」と「1891年創設」を証明できる物的証拠があると主張し続けている。ルシアノ・アルバレス博士の170ページに及ぶ調査資料は、両者の法人格が直接継承された経緯を示す文書、第3者証言、当時のメディアの報道記録を含んでいる。アルバレス博士はナシオナルは盟主ではないと考えており、彼らが「デカーノ」でペニャロールの歴史認識を批判した上記の9項目に対して、以下のように個別に回答した。

  • 1. CURCCのソシオの中に、親会社の鉄道会社に雇用された従業員ソシオと雇用されていない非従業員ソシオがいて、両者の発言力に差異があったのは確かに事実である。非従業員ソシオは議題への投票権(Voto)を持たなかったが、意見を述べる権利(Voz)は持っていた。

  • 2. 1913年6月2日にクラブの法的地位を改革するための投票が「チーム・ペニャロール」の構成員を含む者たちの手によって行われた。投票者のうち8人から13人が経営陣の役員で、3票が非従業員ソシオに与えられている。ただし彼らの議決によっても親会社の決定を覆すことは出来なかった。それは「本格的サッカー活動を行いたい者達は会社と関係のない立場で、独立した法人格と経済基盤を手に入れ、自前の本部事務所とホームスタジアムをビジャ・ペニャロールから離れた場所に作らなければならない」という決定であった。親会社の決定を受け入れるかどうかクラブ内部で再度投票したところ、25対12で否決された。

  • 3. CURCC内部のセクションとして残留しつつ、高水準な環境でサッカー部を存続できないか親会社と交渉していた関係者たち、CURCCの持つスポーツ団体法人格の継承と移行に伴う諸手続きをクラブ経営陣(全員が親会社の出向役員)と協議し、合意に達した記録が発見された。

  • 4.1913年12月13日のCURCCクラブ会議には従業員ソシオと非従業員ソシオが両方とも参加し、高水準な環境でサッカーを続けたい者達は本体と分離したセクションへ移動する事が最終合意された。さらに詳細に言えば、CURCC本体と別個の規約と法人格を作り、独立採算制をとる事、準委員会(スブ・コミシオン) を形成して自治を行い、以て自分達の切望する競争的なサッカー環境を実現すべしという結論が出たのである。すなわち、「社員福利厚生部門」と「競争的部門」がCURCC内部で棲み分けされた。ナシオナルが指摘したソシオの人数と権限の差異は、史実を読み違えている。紛れもなくCURCCのクラブ会議の権限と正当性によって行われた同会議の結果は、「議決権を持つソシオの3分の2の賛成によって」承認されている。また同じく、ナシオナルが取り上げた3つ目の項目で「ソシオ全体の25%の賛成」が議題を決定事項とする効力があるなどと誤った解釈をしているが、「過半数の賛成」とするのが正しく、この点でもナシオナルはCURCCのソシオ権限と議決方法を綿密に調べていない。

  • 5. CURCCのソシオ達はペニャロールへ移っている。親会社が統括するレクリエーションのためのサッカー部門に残ったソシオもいた。これが1913年12月から1915年1月まで一時的に発生した状況。約4か月間のあいだにCAペニャロールは法人格取得、団体規約の作成、名称の決定、クラブ公式旗のデザイン、スポーツ施設のCUR社敷地内からの移転を完了させた。

  • 6. CURCCの親会社であるCUR社は、従業員の純然たる福利厚生のためのサッカーチームを残し、本格的にサッカーに打ち込む者はペニャロールに入ったというだけの事である。その状態が約1年ほど続き、アマチュアの方は消滅した。当時のメディアの報道にもそれはきちんと表れている。

  • 7. 1914年4月13日に公共事業監督庁は、クルブ・アトレティコ・ペニャロールを、セントラル・ウルグアイ・レールウェイ・クリケット・クラブの法的地位を継承する存在として認識した上で、法人格を与えた。新たな法人がゼロから発生したという指摘は誤りである。

  • 8. CURCCが整理したという財産は親会社と従業員のものであり、彼らの中で消化されたという以外にない。​

  • 9. 1957年から1958年にかけてペニャロールが行ったクラブの法的地位に関する記述改定に関して、当時の会長クリスティアン・ガストン・ゲルフィ氏の発言を部分的に取り上げて誇大化しているが、全文をよく読むべきである。彼はこう言った。「私達CAペニャロールは、自分達の期限と創設年が公的に承認され肯定されたという記録に関して、何ら意見を述べるところはありません。然しながら唯一つの情報、とりわけ現在の幣クラブの法的地位の変遷、それは間違いなく行政から認められたものですが、クラブ規約第1項にある通り完全な事実であります」。​ またナシオナルは1914年以降ウルグアイ政府がペニャロールの創設年を複数回にわたり改定したなどと主張するが、それは虚偽であり、CURCCから法人格を継承した一連の行政手続きには、彼らの言うような歴史的矛盾は無い。さらなるデータとして、1958年12月23日にウルグアイ政府国務院はCAペニャロールについて公文書の中で「その法人格は既に承認され許認可されたものとして今後も持続する」とした。これは、1914年から1958年までの間に8回同じ文面でなされた行政手続きで、国家はCURCCの法人格がペニャロールに引き継がれたという最初の見解を一度たりとも覆していない。

1899年のアルビオンFC。ウルグアイで最初に実践的にサッカーをしたとされる。

アルビオンFCの立場

 

ナシオナルとペニャロールの「歴史の長さ比べ」論争からひとまず距離を置くと、1891年6月1日にウルグアイサッカー協会に加盟(CURCCより約4か月早い)したアルビオン・フットボール・クラブが現存するサッカークラブとしてはウルグアイ最古である。それで「最古」を巡る論争は簡単に決着が付いてしまうが、アルビオンFCは2019年現在セグンダ・ディビシオン・プロフェシオナル所属で、1部リーグ優勝経験が無い。盟主論争の本質がナシオナルとペニャロールの名門としての意地の張り合いに過ぎないと捉えた場合は当然のことだが、彼等を「第3の盟主候補」として俎上に上げる議論はほぼ皆無である。アルビオンもまた自分達を盟主と主張する事も無い。   

注釈

  1. 1909年にアルビオンFCはリーグを脱退、以降1960年代まで長く復帰することは無く、「リーガ・ウニベルシタリア・デ・デポルテス」というFIFA未承認協会の一員としてサッカー、野球、バスケットボール、陸上競技などを運営した。

  2. モンテビデオにて1924年7月24日、ウルグアイサッカー協会はナシオナルに書簡を送り、1924年のパリ五輪でウルグアイ男子がサッカー競技で優勝した事を祝うパーティーに招待した。その招待文は「奥深く作法があって、当協会の最も古いメンバー、最も卓越したクラブのひとつである貴方がたを招待する」というものだった(出典)。ペニャロールと違ってナシオナルはAUFを一度も離脱した事が無い。ちなみに手紙が贈られた日付はペニャロールがアマチュアリズム規定違反で資格停止を受けた時期で、同時期に協会に残っていたメンバーの中でナシオナルが最古というのは客観的に見て真実である。3シーズンの協会分裂を経て、ペニャロールは1927年のカンペオナート・ウルグアージョから協会に再加盟した。

  3.  1913年に鉄道会社の執行役員ミスター・ベインは、CURCCがフィールドを放棄したという発言をした。これはCURCCのインチャが試合の日にビジャ・ペニャロールの試合会場に行くために乗っていた、同社の鉄道車両を破壊したからで、これもサッカー部存続が問題を引き起こすという会社側の判断の一因だという。ペニャロールの歴史本の執筆者ルシアノ・アルバレスは、「もし同様の事件が発生し続けると車両修理に人手が割かれ、サッカー部運営に必要なマンパワーが不足するだろうと彼等は考えた」と書いている。

関連リンク集

    
翻訳元最終更新履歴 es.wikipedia:Decanato en el fútbol uruguayo 17:33 30 sep 2019 (UTC)

・ 1948-49ウルグアイサッカー選手組合ストライキ - 1950年ワールドカップ王者の知られざる内戦