Estadio Autocrédito Diego Armando Maradona
エスタディオ・アウトクレディト・ディエゴ・アルマンド・マラドーナ

あだ名 El Semillero del Mundo (世界のスーパースターを作る場所)
住所 ガビラン通り 2151, ビジャ・ヘネラル・ミトレ区, ブエノスアイレス, アルゼンチン
座標点 34°36′22″S 58°28′21″O(座標) 34°36′22″S 58°28′21″O (地図)
所有主 Bandera de Argentina AAアルヘンティノス・ジュニアーズ
技術詳細
ピッチ 天然芝
ピッチ寸法 100 x 67メートル
収容人数 26,000人
建設情報
費用 8,000,000米ドル
開場 1940年4月21日/2003年12月26日
デザインチーム
建築士 エクトール・ラウール・カラッチオロ
ホームチーム
AAアルヘンティノス・ジュニアーズ
エスタディオ・ディエゴ・アルマンド・マラドーナ、スポンサー記号名付の正式名「エスタディオ・アウトクレディト・ディエゴ・アルマンド・マラドーナ」は、アルゼンチンのブエノスアイレス市中部ビジャ・ヘネラル・ミトレ区にあるサッカー専用スタジアム。AAアルヘンティノス・ジュニアーズがホームスタジアムとしている。スタジアムはフアン・アグスティン・ガルシア通り、サン・ブラス通り、ガビラン通り、ボジャカ大通りに面しており、隣の地区ラ・パテルナルにはクラブの本部事務所がある。ディエゴ・アルマンド・マラドーナはこのスタジアムでプロ1軍の公式戦にデビューした。
スタジアムの名称はAAAJのOBであるマラドーナを讃えて付けられたもので、彼は1976年10月26日に当時15歳ながら、1軍の公式戦でこのピッチに立った。以後5年間AAAJの選手としてプリメーラ・ディビシオンでプレーし、クラブ歴代2位の116ゴールを決めている。

第1期 (1940-1981)

1913年、AAAJはビジャ・オルトゥサル区のフラガ通りとエストンバ通りの間に自前のホームスタジアムを所有していた。次にサン・マルティン大通りとプンタ・アレナス通りの交差する地点にあった、太平洋鉄道所有の1万人収容のスタジアムに移転し、1925年から1937年まで本拠地として使用した。クラブが賃貸料を支払えなくなってから立ち退きを余儀なくされ、太平洋鉄道は当時としては貴重な鉄製スタンドを持ったこのスタジアムを閉鎖してしまった。約2年のジプシー状態を経て、AAAJは1939年にメダノス(現在のフアン・アグスティン・ガルシア通り)とボジャカ(太平洋鉄道所有スタジアムから600m)の土地を賃貸し、この土地に新しくスタジアムの建設を始めた。その際、太平洋鉄道は閉鎖したスタジアムの建材を提供する事に合意した。
通称「エスタディオ・メダノス・イ・ボジャカ」と呼ばれたこのスタジアムは、1981年にプリメーラ・ディビシオンにおける最後の試合を開催するまで半世紀近くAAAJの自前の本拠地であり続けた。当時クラブはマラドーナのボカへの売却金を利用して末期状態まで古ぼけたスタジアムを改修しようとしたが、結果的にこの金は1軍チームの補強予算と総合スポーツ施設の拡充予算に充てられた。またボカはAAAJが要求した移籍金を全額支払わなかった為、契約上マラドーナはAAAJに復帰するべきであったのだが、最終的にはFCバルセロナへと全保有権が売却された。トップチーム監督を務めていたアンヘル・ラブルナの決断により、隣接する地区のフェロカリル・オエステの本拠地エスタディオ・アルキテクト・リカルド・エチェベリを暫定ホームとする事になった。彼の考えでは「新しいサッカー思考を発展させるのに必要な最大限の規格を持つフィールドだから」、とのことである。
リカルド・エチェベリ暫定本拠地時代、AAAJはメトロポリターノ1984でリーグ初優勝、ナシオナル1985で2度目の優勝を飾った。さらにコパ・リベルタドーレス1985で初優勝し、インデペンディエンテ、ラシン・クラブ、エストゥディアンテスLP、ボカに続き南米制覇を成し遂げたアルゼンチンで5番目のクラブとなった。

ジプシー状態から再建計画へ (1981-2003)

AAAJが離れていた間、スタジアムのゴール裏は木製からセメント製に作り替える為に1995年中に速やかに解体された。当時クラブはソシオ会費やスポンサー収入の低迷で重度の財政難に陥っており、まだプリメーラ・ディビシオンにデビューしてもいない少年を含む多くの若手を売却する程の自転車操業を強いられた。その中にはフアン・ロマン・リケルメ、エステバン・カンビアッソも含まれていたが、彼らは海外移籍時に家族そろって移民したため、AAAJは過去に遡って育成実績をアピールし、少しでも売却金分与に与かろうとFIFAに請願する事さえあった。クラブ内部の乱脈経営、1996年と2002年の二度の降格に伴う収入減少、そして元々ローカルライバルであったフェロのスタジアムを使い続ける抵抗感から、AAAJはCAアトランタ、デポルティーボ・エスパニョール、ベレス・サルスフィエルド、CAウラカンなど首都の異なるクラブのホームスタジアムを転々と移りながらホームゲームを開催した。1993年にスポンサードを始めた投資ファンドがこの混乱に拍車をかけ、理由は不明ながらメンドーサ州のエスタディオ・マルビナス・アルヘンティーナスで主催試合を行う事を強制された。また1995年のCONMEBOLスーペルコパ・スダメリカーナは、米国マイアミ市のオレンジ・ボウルでAAAJのホームゲームが開催された。
セメント製の新スタジアム建設計画は8年の歳月をかけてゆっくりと進行した。AAAJの主要な大口ソシオ会員である建築家エクトール・ラウール・カラッチオロが建設を実行に移すための実行集団を形成し、アルゼンチン国家そのものの経済不振に伴う資金不足に悩まされながらも、粘り強く活動を続けた。彼らの献身性と努力によってAAAJは22年ぶりに自前のスタジアムを再建した。旧時代より小規模ではあるもののフィールドには先端的な技術が使われ、芝を保水するためのスプリンクラー器には、建設当時の南米においては最も新しい機能が備わっていた。

リニューアルオープン (2003)

2003年末、多くの難題を乗り越えてついに工事が完了した。新スタジアムの建設費はクラブの純収入から捻出されており、計画に興味を抱く企業の出資や寄付金のオファーがあっても一切頼らなかった。年の瀬を迎えた2003年12月26日、30,000人の観衆を集めコパ・リベルタドーレス1985優勝メンバーと1997年に1部復帰を成し遂げたメンバーによるエキシビジョンマッチが開催された。さらにアンダー20アルゼンチン代表とAAAJのより若い世代のOBチームの対戦も行われ、こちらのOBチームはカンビアッソ、フアン・パブロ・ソリン、クラウディオ・ボルギらが参加した他、ベンチの指導者もロベルト・サポリティ、オスバルド・ソサ、ホセ・ペケルマン、ウーゴ・トカーリなど過去にAAAJに所属した錚々たる面子が勢ぞろいした。

帰還から現在 (2003-)

スタジアム所在地の土地所有権を取り戻してから半年後、AAAJはCAタジェレスとのプレーオフを制してプリメーラ・ディビシオンに復帰した。以降チームは2度の入れ替え戦を強いられるなど、再度の降格の脅威に晒されるも、ホームでの圧倒的強さをテコに残留を勝ち取り続けたが、規定よりもピッチサイズが狭い事で優位性を得ているという批評も聞こえるようになった。しかしディエゴ・A・マラドーナのピッチサイズは少なくとも、オリンポ、アトレティコ・デ・ラファエラ、アルセナルFC、CAバンフィエルドのホームスタジアムの寸法よりは広い。
数年後、スタジアムは久々にAAAJの国際試合の舞台となった。チームはコパ・スダメリカーナ2008の出場権を獲得し、最終的に3位に食い込んだ。2010年にAAAJはクラウスーラで優勝し25年ぶりにリーグタイトルを獲得したが、これは自前のホームスタジアムを持っている状態における初優勝であった。この時期はコパ・スダメリカーナに2010年と2011年、コパ・リベルタドーレスに2011年大会と南米カップ戦にコンスタントに出場し続けた。

スタジアムのデータ・特徴

現在スタジアムの収容人数は26,000人である。席種は6つのエリアに区分されており、立ち見ゾーン(Popular)と座席ゾーン(Platea)がそれぞれ3つずつ。
ボジャカ通り沿い:
  • 立ち見ゾーン "セクトール・ガルシア・ミラモン":ゲート1・2から入場、9,300人収容
  • 座席ゾーン "フランシス・コルネーホ":ゲート3・4から入場、3,000人収容 Puertas
フアン・アグスティン・ガルシア通り沿い:
  • 立ち見ゾーン(名称無し):ゲート6・7から入場、3,000人収容
  • ガビラン通り沿い:
  • 立ち見ゾーン"クラウディオ・ダニエル・”ビチ”・ボルギ:ゲート9と13から入場、5,000人収容
  • 中層座席ゾーン:ゲート8と11から入場、2,000人収容
  • 上層座席ゾーン:ゲート10と12から入場、3,700人収容
サン・ブラス通りもスタジアムに面しているが、現時点ではゲートが無いため新たに建設計画が進行中である。パルコ席の設置に関してはブエノスアイレス市議会で許可を得たが、収入不足のため凍結状態にある。そのパルコ席設置予定の場所には中型サイズのLEDモニターが置かれており、試合状況・リプレイ・来場者への歓迎メッセージ、そしてグッズコマーシャルなどが映し出される。一方で非常にレトロな得点ボードがいまだ存在しているが、音響装置はデジタルサラウンド化されている。
スタジアムの外壁素材は地区内のクラブ施設、インチャ有志、地元の若者、近所の学校・公園・幼稚園から持ち寄られたものである。これはクラブと地域社会の連帯感を醸成し、クラブに存在を通して隣近所との結びつきを再確認させた。また現在のスタジアムが決して21世紀にできた新しいものではなく、もっと昔からこの地区にAAAJが存在し、潜在的支持層が多かった証でもある。
立ち見スタンドはボジャカとフアン・アグスティン・ガルシア通りに面しており、クラブカラーで塗装されている。これも若い世代のソシオ会員有志の手で行われた作業で、まったくのボランティアであった。この集団はスタジアムの外壁前で行われたイベントで、黄金期のOB選手達と交流する機会を提供された。サン・ブラスとガビラン通りに面した壁には、OBのクラウディオ・ボルギの功績をたたえ彼の名前が付けられている。 AAAJに6シーズン在籍したFWホルヘ・キンテーロスの名前も、ガビラン通りとフアン・アグスティン・ガルシア通りの交差地点の壁に付けられている。とある一軒家の前にある、サン・ブラスとボジャカ通りの交差地点の壁には、スタジアム名と同じく「ディエゴ・アルマンド・マラドーナ」の名前が冠された。この一連の命名作業も塗装作業を行ったのと同じ有志集団によって行われた。

博物館「エル・テンプロ・デル・フトボル」

ガビラン通りに面したスタンドの内部には、「ムセオ・エル・テンプロ・デル・フトボル」という博物館がある。サッカーを扱う歴史博物館としてはアルゼンチン国内にたった3つしかないもののうちの1つで、他2つはボカとリーベルのスタジアム内にある。AAAJの博物館は、インチャとソシオからの収入のみで作られたという点が前2者と大きく異なっており、自治体や民間企業から資金援助を受けていない。

小規模な博物館であるが、1910年以来AAAJサッカー部門が獲得した国内・南米の5つのトロフィーが展示されており、また歴代の名選手の記録、ディエゴ・マラドーナに関するクラブ制作の短編ドキュメンタリーなどを観ることが出来る。

開館日は火曜・木曜・土曜だけで、入館料がとても安く12歳以下の児童は無料である。AAAJのホームゲームの日には相当数の外国人観光客が来館しており、観光客向けにロッカールーム・プレスルーム、中央ホール、フィールド、メインスタンド中央席を回る見学ツアーが催行されている。

メッシの年代別代表デビュー戦

2004年にFCバルセロナのリオネル・メッシ(当時17歳)が、エスタディオ・ディエゴ・アルマンド・マラドーナで6月29日に開催されるパラグアイとの親善試合に臨むアンダー20アルゼンチン代表のメンバーに初召集された。メッシは後半から途中出場して1ゴールを決め、アルゼンチンは8-0の大勝を収めた。

教育の場として

前述のとおりAAAJと地元社会は非常に結びつきが強く、スタジアムは教育にも使われている。2007年にボジャカ通り沿いスタンドの内部にクラブが運営する私立高校ができた。これはブエノスアイレス市庁に登録された正規教育機関で、スポーツジャーリズムを核とした専門的な社会科学教科を取り扱っている。クラブ寮に住み込んでいる下部組織の少年達もこの高校に通い、プロを目指してサッカーに取り組む一方で、中・高等教育を修了するために活用している。

アクセス

番地言語表記: Gavilan 2151. Ciudad Autónoma de Buenos Aires.
コレクティーボ路線番号: 24 - 34 - 44 - 47 - 57 - 63 - 78 - 84 - 105 - 109 - 110 - 113 - 124 - 133 - 135 - 146 - 166 
メトロブス最寄り駅: Álvarez Jonte/Argentinos Juniors 
最寄り鉄道駅: Ferrocarril General San MartínEstación La PaternalFerrocarril General UrquizaEstación Arata

情報源

翻訳元最終更新履歴
es.wikipedia:Estadio Diego Armando Maradona 18:59 17 jun 2019 (UTC)