エスタディオ・ブリガディエル・ヘネラル・エスタニスラオ・ロペス
Estadio Brigadier General Estanislao López
Cementerio de Elefantes.jpg
2011年のブリガディエル・ヘネラル・エスタニスラオ・ロペス
フルネーム エスタディオ・ブリガディエル・ヘネラル・エスタニスラオ・ロペス
旧名 エスタディオ・エバ・ペロン (1952-1955)
あだ名 El Cementerio de los Elefantes (ゾウたちの墓場)
所在地 サンタフェ, アルゼンチン
座標 31°39′48″S 60°43′31″O31°39′48″S 60°43′31″O (地図)
所有者 CAコロン・デ・サンタフェ
技術的詳細
天然芝
ピッチサイズ 105 × 70m
収容人数 40,000人
工事
改修工事 2011年6月25日
拡張工事 2001年8月25日
設計チーム
建築 オットー・A・パピス研究所
ホームチーム
CAコロン
イベント実績

2007年 ラグビーアルゼンチン代表対アイルランド代表戦

ラグビー・ユースワールドカップ2010

コパ・アメリカ2011

2012年 ラグビーアルゼンチン代表対スタッド・フランセ (テストマッチ)

2016年 ラグビーアルゼンチン代表対イタリア代表 (テストマッチ)

2017年 ラグビーアルゼンチン代表対イングランド代表 (テストマッチ)

2018年 ラグビーアルゼンチン代表対ウェールズ代表 (テストマッチ)

エスタディオ・ブリガディエル・ヘネラル・エスタニスラオ・ロペス、通称「ゾウたちの墓場 (El Cementerio de Elenfantes)」はアルゼンチンのサンタフェ州サンタフェ市にあるフットボール専用スタジアム。開場は1946年で、CAコロン・デ・サンタフェがホームスタジアムとしている。

概要

フアン・ドミンゴ・ペロン政権当時、CAコロンのアルゼンチンサッカー協会加盟を手助けしたファーストレディ、エバ・ペロンの名前が1952年に付けられた。またエバは夜間照明器設置とメインスタンド建設のセメントの費用も援助した。1955年のクーデターでペロン夫妻が失脚すると2人の名を建造物・地名に冠する事は禁じられ、1818年から1838年までサンタフェ州を支配したカウディージョ(地方軍閥の頭領)、エスタニスラオ・ロペスの名に替えられた。ブリガディエル・ヘネラルとは、「旅団将軍」を意味する。
「ゾウ達の墓場」というニックネームは、CAコロンがこのスタジアムで強豪クラブ相手に何度も番狂わせを演じたことが由来である。1964年にはコパ・リベルタドーレスとインターコンチネンタル・カップを2連覇中で、ペレを擁するサントスFCに2-1で勝利し、彼らの公式戦連続無敗を41試合で止めた。また、同年にはアルゼンチン代表とのテストマッチにも2-0で勝っている。1967年にもコパ・リベルタドーレスとインターコンチネンタル・カップの現王者であるCAペニャロールにも勝ち、ミジョナリオスFC、オリンピア・アスンシオン、ウニベルシダ・デ・チレ、アリアンサ・リマなどもこのスタジアムでコロンに敗れている。
現在公式収容人数は30,000人に抑えられており、国立住宅基金(Fondo Nacional de Vivienda)の命令でビジター側南スタンドが改修工事に伴い閉鎖中である。スタンドは全てセメント製で、北側と東側スタンドに屋上席、北東コーナーと南西コーナー部分にパルコ席がある。
アルゼンチン代表はこのスタジアムで国際Aマッチを3試合戦っており、最新の試合はパナマ代表に3-1で勝った。コパ・アメリカ2011ではコロンビア代表と0-0で引き分け、準々決勝でウルグアイ代表と0-0でPK戦に突入し、敗退した。

歴史

1939年にCAヒムナシア・デ・シウダデラの本拠地を借りてホームゲームに臨むコロンの選手達
CAコロンは20世紀前半にサンタフェ市内のサバージャ通り、モレノ通り、サンフアン通り、コリエンテス通りに囲まれたスタジアムを使用していた。しかしこの土地の賃貸料が支払えなくなったため、スタジアムは解体されコロンは自前の本拠地を失った。その間にリーガ・サンタフェシーナに参加し始め、ホームゲームは主にCAヒムナシア・イ・エスグリマ・デ・シウダデラの本拠地を間借りしていた。また、時折ライバルであるCAウニオン・デ・サンタフェのエスタディオ・キンセ・デ・アブリルを使用する場合もあった。
コロンの経営陣は新本拠地を建設するための土地選定を始め、サンタフェ市南部地区が適切とされた。条件に合う地区としてセンテナリオ区が浮上したが、いざ土地を買収しようとした際にファンから反発が起きた。同地は所謂「水害危険地帯」であり、サラド川が氾濫した際にはスタジアムが水没する危険性が指摘されていた。しかし反対を押し切り、オラシオ・ソサ会長は1939年3月2日に建設用地を購入した。
1941年11月、スタジアムの建設が着工した。まず「オリンピコ」の単語が刻まれた外壁をセメントで作り上げたが、しかしそれゆえにフットボール専用にするのか陸上用トラックのついた総合競技場にするのかという疑問が巻き起こった。クラブ首脳陣はブエノスアイレスに出向き、政府と公共建設省に20,000ペソの資金援助を請願した。ほぼ同時に、コロンの有名なソシオ会員でありクラブ創設に携わったリカルド・クジェン・フネス氏を発起人として、「プロフィールド」という非公式な建設計画委員会が立ち上げられた。
約2年間の停滞を経て、1943年7月に次の会長フランシスコ・ギアーノの代に、フアン・ホセ・パソ通りに面した最初の建造物が着工した。ギアーノ会長はCAロサリオ・セントラルと友好関係を築いており、ロベルト・ジェブラ、ラウル・テヌッタ、アントニオ・フネス、ルベン・マラシーノといった選手たちを合計45,000ペソで獲得できた。またCAバンフィエルドからもデ・サンティスを10,000ペソで獲得した。コロンもまたエリベルト・オリバレスをロサリオ・セントラルに10,000ペソで売却した。この時代におけるコロンの最高の補強は1944年にフアン・サボティグとアンヘル・ガエタンを2人合わせて28,000ペソで、ルイス・ブラボを25,000ペソで獲得した事である。ギアーノ会長が戦力補強に投じた額は199,000ペソにも上った。
最初に完成した部分。現在のメインスタンド(Platea Oficial)にあたる。
外部から集められた資金はまず整地と芝の植え付けに使われ、並行してスタンドの建設も続いた。柱にはケブラチョ(タンニン成分を多量に含む南米産木材)、床はコンクリートを素材にした。現在と違い、この当時は陸上競技と自転車競技ができるトラックのスペースも計算に入れて工事が進んだ。更衣室、バスルーム、そしてセメント製のメインスタンド南西部分、木製両サイドスタンドと次々に建設が進んだ。1945年、CAコロンのフラッグが飾られた2本のセメント製の柱による1つ目のエントランスが完成した。
1946年、コロンはこのスタジアムを一応本拠地として使える程度まで体裁を整えた。3月31日には落成記念試合としてCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロを招いたが、最悪な事にサラド川が氾濫してピッチが水没した。立地の危険性が再確認され、スタジアムの正式な開場は同年7月9日まで延期された。
1946年7月8日の夜、正式開場前夜にクラブ主催のパーティーがサンタフェ市内のホテル「ラ・ヒラーダ」で行われ、500人が出席した。その中には行政の有力者、軍人、ボカ・ジュニアーズ、CAロサリオ・セントラル、CAアトランタの代表者、リーガ・サンタフェシーナ、リーガ・ラファエリーナ(サンタフェ州カステジャノス県とサン・クリストバル県の地域リーグ)、リーガ・パラナエンセの会長達もいた。地元のマスコミは勿論のこと、ブエノスアイレスのマスコミも招待を受けた。
当時CAコロンは州リーグ所属で全国的に無名だったが、招待されたボカ・ジュニアーズと翌7月9日に記念試合を行い、なんと2-1で勝利した。観衆は約10,000人で、首都からやってきたボケンセも含まれていた。この試合は過去に行われたコロンのどの試合よりも多額の入場料収入をもたらした。
試合前にはイベントとして、コルガンテ・デ・サンタフェ大橋からスタジアムのピッチまでマラソンを行う「マラトン・コロン」が行われ、ヘルマン・サレルノ・デル・クルブ・ロサリオ・セントラルが取り仕切った。その後、ラファエラ氏のスポルティーボ・ベン・ウルとアトレティコ・パラナの親善試合が行われ、3-1で勝ったベン・ウルに協賛した日刊紙エル・リトラルがトロフィーを授与した。
一連のスポーツイベント終了後、CAコロンとロサリオ・セントラルの間で友好の盾の交換が、陸軍歩兵第12連隊司令官ダルミロ・アダーロ中佐の監督下で行われた。軍楽隊演奏による国家斉唱、サンタフェ航空クラブのパイロットたちの飛行パフォーマンスなども行われた。これら大々的な開場記念式典は、後年クラブの役員となるソシオ会員のエスクリバノ・フェルナンド・デ・フェオ氏によって企画・運営された。
エバ・ペロンの初来場、1947年のクラシコ・サンタフェシーノにて。
1947年12月7日、エバ・ドゥアルテ・デ・ペロンが自分の名を冠したサンタフェ市の小児病院オープン記念式典のために同地を訪問した。そのついでにコロンのスタジアムにも立ち寄りクラシコ・サンタフェシーノを観戦。スケジュールの都合で後半途中に帰ったが、国家要人を迎えるにも関わらずナイトゲームに必要な照明がまだ無かった。中央地域に劣悪な環境のクラブが多い事を知ったエバは不憫に思い、これを改善する私的な対策室に膨大な数の人材を動員した。1948年にはコロンのAFA加盟を手助けし、これでコロンはプリメーラ・ディビシオンの一つ下のカテゴリーに参戦することが出来た。
1949年4月2日、5-1で勝利したCAウラカン戦で夜間照明が初お披露目された。この照明設置は国家からCAコロンへの150,000ペソの直接支援によって実現した。
CAコロンの副会長フェルナンド・デ・フェオからエバ・ペロンに赤と黒のペナントが贈られる
1950年12月30日、CAコロンとCAウニオンの間で2部リーグカップ戦「コパ・オノール・フアン・ドミンゴ・ペロン」決勝が行われ、コロンが4-2で勝った。コロンはAFAから初めてトロフィーを贈られ、前述のとおり共和国大統領の名が彫られていた。
1951年4月、今度はパラナ川が氾濫して再度スタジアムは浸水被害に遭い、コロンは序盤戦のドク・スド戦、ロサリオ・セントラル戦、アルヘンティノス・ジュニアーズ戦の3つのホームゲームを代替地のヒムナシア・デ・シウダデラで開催する事を命じられた。
1950年9月18日月曜日、国家の支援を得たコロン経営陣はスタジアムに隣接する土地を750,000ペソで賃借した。この土地は南側スタンドの拡張工事を進めるのに大きく役立った。
1952年、西サイドスタンドのセメント工事が完了し1,000席の座席が取り付けられた。収容人数は20,000人まで増えこの時点におけるサンタフェ市最大のスタジアムとなる。4月20日に完成した新スタンドは3-2で勝利したプリメーラ・ディビシオン・Bのスポルティーボ・ドク・スド戦で初めて開放された。5月18日は南西コーナースタンド「ロヒネグロス」が、5-0で勝利したアルヘンティノス・ジュニアーズ戦で初使用された。その間、木製の両ゴール裏スタンドの工事も続けられた。
1952年のスタンドの画像
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「エスタディオ・エバ・ペロン」 (1952-1955)

1952年6月21日にエバ・ペロンからコロンに贈られた写真
1952年7月26日にエバ・ペロンが亡くなると、8月7日にはクラブ経営陣が異例の緊急会議を開き、スタジアムの名称を「エスタディオ・エバ・ペロン」に改名する事が決められた。8月8日にCAコロンはAFAに請願書を提出し、ソシオ達も署名を集めた。8月11日にスタジアム所在地のセンテナリオ区の複合スポーツ施設そのものが「エスタディオ・エバ・ペロン」に改名され、同じくエバの死去により一時改名していたヒムナシア・イ・エスグリマ・デ・エバ・ペロン(現GELP)と追悼試合を8月16日に行った。
しかしながら、クーデター後もわずかな期間この名称は使用を許されていた。正式には軍事政権のペドロ・エウヘニオ・アランブル大統領が出した1956年の法令4161号により、フアン・ドミンゴ・ペロンとエバ・ペロンの名を国内で公的に使用する事が禁じられた。この時から現在の「ブリガディエル・ヘネラル・エスタニスラオ・ロペス」の名称が使われている。

ニックネーム「ゾウたちの墓場」誕生 (1964)

日刊紙エル・リトラル1964年5月10日号。
コロンのインチャ達が両親・祖父母から何度も聞かされたエピソードに、1960年代にコロンが現役クラブ世界王者だったサントスFCとCAペニャロールに本拠地でのエキシビションで勝ったというものがある。当時コロンは2部リーグ「プリメーラB」所属であり、しかもサントス戦前日のリーグ戦でCAプラテンセに負けていた。そんなクラブが超有名クラブを倒したというので、このスタジアムは「ゾウ(格上)の墓場」というニックネームを頂戴した。とりわけサントスは南米・世界タイトル連覇中で、ペレとコウチーニョを擁し43試合連続無敗中であった。
ボカ、リーベル、ラシン、サン・ロレンソ、インデペンディエンテの所謂「シンコ・グランデス」(5大名門)とのエキシビジョンでも勝っており、その後1967年3月26日にエキシビジョンではまたも現役世界王者CAペニャロールに3-2で勝ち、1964年9月7日にアルゼンチン代表との練習試合にも2-0で勝ったため、「格上の墓場」という綽名は有名になった。
他にこのスタジアムで敗北した「ゾウ」にはコロンビアの強豪ミジョナリオスFCがいる。2007年1月28日に0-4で大敗し、オリンピア・アスンシオンは複数回敗れ、ウニベルシダ・デ・チレはコパCONMEBOLで、アリアンサ・リマとCDウニベルシダ・カトリカ・デ・チレもコパ・リベルタドーレスでの対戦でコロンに負けた。

第1期改修工事(1966-1978)

1968年の記者席

メインエントランス。1966年のチャカリータ・ジュニオルス戦。
1966年、コロンは2度目のプリメーラ・ディビシオン昇格を果たし、これに伴いスタジアムに最初の放送席が設けられた。以後約10年間、フォルムを崩すことなくゆっくりと収容人数が拡張されていった。
1975年4月14日の月曜日、エル・リトラル紙はサン・ロレンソとのホームゲームを2-1で制したコロンの勝利を次のように報じた。
「昨日、CAコロンのスタジアムに6,435人の支援者より総額3,217,500ペソの寄付が贈られた。30×30サイズの新たな建造物、近代的なバスケットボール・スタジアムがロス・サバレロスの複合施設内に作られるであろう。また同時にスタンドの更なるセメント化と、水泳ホールの二つの新しい更衣室も実現する。明日にもフアン・ホセ・パソ通りのCAコロン本部事務所で経営陣から公式に建設計画が発表される事であろう。クラブ施設の更新は数年間待ち望まれていたことで、今それが実行に移されようとしている、健全にして突出した誉れ高い仕事として」
1975年にはエウヘニオ・マルコリンがCAコロンの会長となり、北側スタンドのセメント化を実施した。翌年には座席設置、新たなパルコ席と西側スタンドの放送室増強も行った。これら一連の改修は1978年に完了した。
1970年代のスタンド画像
北側スタンド
南側スタンド

ビグナッティ会長時代の改修 (1994-2001)

2001年リニューアルオープン後の画像
南側ゴール裏 (ビジター側)
東側スタンド。全面座席化されている。
北側ゴール裏(ホーム側)。2階が全面座席化されている。
ベンチ
2015年の上空からの画像
1990年代初頭、ホセ・ネストル・ビグナッティ会長はライバルのCAウニオンが15年間2部に低迷したまま浮上せず、さらにはサンタフェ州勢として唯一3部に降格した事に頭を悩ませた。クラシコが長期間行われない状況下、ビグナッティ会長は観客動員回復のため南北の木製ゴール裏スタンド改修に着手し、素材をセメント化。北側・東側・南側の3スタンドに座席を新たに多く取り付けた。モデルになったのはCAロサリオ・セントラルのエスタディオ・ヒハンテ・デ・アロジートである。
1994年にこの改修工事が開始され、まず両ゴール裏の木造部の撤去が行われ、セメント製の新たなスタンドが建設された。その間1995年には東側スタンドの最も安い席(ビジターファンに部分的に割り当てられる)が増築され、北側ゴール裏拡張工事も同時進行した。
1997年には北西コーナースタンド、南東コーナースタンドとビジター側の一部座席化が行われた。1998年に芝の全面的な張り替えが行われたが、ここのピッチは1997年末のレイ・イ・レドンディートス・デ・リコータのライヴ・イベントで痛んでいた。
東側スタンド2階座席スペースの基礎部分、柱、床の改修が2000年に始まり、続いて階段などスタンドとコンコースのアクセスにも手が加えられた。また更衣室のリニューアルも行われている。
2001年2月、東側スタンドの全面的改修と通路補修が始まった。この間、老朽化した柱灯が新しいものに替えられ、ビジター側インチャ席は南側スタンドへ一時移動させられた。
最後にパルコ席とメインスタンドの座席化スペース拡大が行われ、バルコニー・パルコ席も拡張された。これらの工事は2001年内に完了した。
この第一段階が完了した時、2001年8月25日のCAヌエバ・チカゴ戦でリニューアルオープンした。30,000人の観衆が集まり、花火ショーや地元のクンビアのグループ、ロス・パレマレスやマリオ・ペレイラ、グルプ・カリ、ロス・ラマスのライヴが行われた。
この日は祝賀イベントだけでなく、悲劇も起こった。試合の前半12分にコロンの選手ガブリエル・ミグリオニコがハビエル・デルガドのクロスからヘディングシュートを決めたが、空中でCAヌエバ・チカゴのGKセサール・ベラスケスのパンチングで強打された。オスカル・セケイラ主審は得点を認める前に、コロンのベンチに向かってメディカルスタッフに急いでゴール前に来るよう促した。チームメイトたちは倒れているミグリオニコを涼ませようと、ユニフォームを脱いであおった。試合は長らく中断せざるを得なかった。
ミグリオニコはホセ・マリア・クジェン病院​に搬送され、重度のトラウマに襲われた。CTスキャンの結果、頭骨を打たれているが幸いにも命に別状はなく、サンタフェ市内の療養所に移送されてから数日間で全快した。
2003年4月29日、豪雨でパラナ川の堤防が決壊しサラド川の洪水と合流、すさまじい水害となってラス・フローレス競馬場付近を水没させた(2003年サンタフェ水害/Inundación en Santa Fe de 2003)。​サンタフェ市は西部地区に至るまで床上4メートル浸水の激甚災害を受け、スタジアムも被害を受けた。しかしながら、奇跡的に短時間で試合開催が可能な状態まで復興する事ができた。
2003年のCAリーベル・プレート戦の最中、北側ゴール裏の照明が落ちて試合進行に支障をきたした。2004年以降、このスタンドの老朽化した設備の抜本的な改修が決定された。

新電光掲示板 (2008)

2008年11月25日火曜日、サンタフェ市内でCAコロンとワイド・エンターテイメント社が10年契約を結び、LED電光掲示板と最新音響装置をスタジアムに取り付ける事業を開始した。投資額は500,000米ドルであった。
こうしてコロンは国内中央地域でも有数の先進的施設を持つクラブとなり、電光掲示に関してはリーベル・プレート、ベレス・サルスフィエルド、CAロサリオ・セントラル、ボカ・ジュニアーズ、アトレティコ・デ・ラファエラ、エスタディオ・マルビナス・アルヘンティーナス、エスタディオ・マリオ・アルベルト・ケンペス、エスタディオ・23・デ・アゴスト、サンフアン・デル・ビセンテナリオに匹敵する水準となった。

コパ・アメリカ開催に向けた改修工事 (2009-2011)

スタジアムの外観(改修完了後)

2009年5月14日、AFAはエスタディオ・ブリガディエル・ロペスをコパ・アメリカ2011の会場に選んだ。これに伴い、大陸選手権の会場に恥じないよう急ピッチで改修と新設備追加が始まった。
2009年7月、ヘルマン・レルチェ会長はベンチスペースを削り取り、あるいはメインスタンド中央部分の解体されたスペースを活用して、両者の間に新たな映像機を設置する改修計画を発動した。
プラテア・フォソの中央部分は場合によっては新たなベンチを作るために削られる、その場合選手や監督を間近で見るのが好きだったインチャには残念な事である。メインスタンドの中央部分とピッチは遠くなるが、少なくとも人工芝の生育環境は維持される。
建築家フランシスコ・ゴンサレスはエル・リトラル紙の取材で工事の詳細について説明した。
完成したスクリーンを我々はプラテア・フォソと呼ぶが、3か所に設置される見込み。2機は観客席に食い込む形になるが、観客の視界に最大限配慮する。中央の1機はフィールドにはみ出さないよう、ベンチ付近に置かれる。その上部が少し高いため、東側スタンド最前列の高さを上げる必要があるかもしれない」。
2010年初頭に工事が始まり、CAパトロナート・デ・ラ・フベントゥー・カトリカの屋根付きスタジアム「エスタディオ・アンヘル・P・マルビシーノ」も手掛けたオットー・パピス研究所が担当した。完成に1年を要すると計算されており、クラブだけでなく国家予算からも費用が捻出された。
新たな計画はホセ・ビグナッティ会長時代の改修計画を少し手直しした程度のもので、北側座席化スペースのサービス向上、南西コーナースタンド1階と2階及びVIP向け3階・4階に新パルコ席設置、南東コーナースタンド1階・2階に多目的サロンとVIP用3階・4階に新パルコ席設置、北側スタンドの座席化スペースとパルコ席への新通路開通が行われた。
新式バスルーム、VIPルーム、メインスタンドの記者席、そして記者席及び関係者席と記者会見用ルームの間に新しい通路、階段、エレベーター、緊急避難口、旧本拠地セルヒオ・ベルディラメンテの土地を利用した駐車場、照明器の改善、巨大映像装置「ワイド・エンターテイメント」が新たに作られた。
また北側スタンドの座席化スペースも新たに増築されたが、隣のバスケットボール部門のホール「ロケ・オルティーノ」とつながるため、境界線として「小窓」が設置された。この増築部分は既存のスタンドの床と同じデザインにされた。
建設企業は設計初期段階でコンクリート製素材を好み、映像機は東側スタンドに設置されることが決まった。建築家はこの機に際し、南側スタンドの座席化されているスペースには十分な広さが無いことを指摘したが、それによって最悪の場合映像機がフィールドにはみ出すことになり、芝生の生育に悪影響をもたらす可能性が出てきた。
デジタルTV放送に対応した照明になっており、これは試合を中継するTV局の要請によるスペック。HD高画質映像の中継ではフィールドを照らすのに2,000ルクスの出力が必要で、クラブの他の部門でも活用する事を念頭に入れた600-700ルクスの旧照明設備は更新された。フィリップス・アルヘンティーナがこの新照明器の開発を担当した。

追加設備

  • 「アレーナビシオン」計画 - 2000ワットのランプが付いたMHN-SEスクリーンと、ZVF320セット。
  • 2キロワット・156プロジェクターによる照明器。
  • 352キロワットを照明器最大出力に追加。
  • 5,600度の熱によるクラブカラー照明の出力。 大多数のスポーツクラブや統括組織が色彩出力温度のデファクトスタンダードとして推奨している。
コパ・スダメリカーナ2012のコロン対ラシン戦

LED電光掲示板、座席塗装、南側スタンド縮小工事 (2014)

親善試合「コパ・デサフィオ・キニ」が2014年2月2日にCAコロンとボカ・ウニードス・デ・コリエンテスの間で行われ、クラブ役員、従業員、マスメディア、スポンサー企業が集まってLED電光掲示板の設置の可能性を討議した。この掲示板は東側スタンド下層部に取り付けられる予定で、直径145メートルになる見通しだった。
2014年シーズンが終りに近づいた7月、CAコロンの複数のインチャ団体がスタジアム座席の塗装支援を求める大規模な会合を開いた。これに参加した多くのインチャの助けもあり、伝統の赤黒の座席カラーが維持されることが決まった。
また、「サバレーロ・ゴール裏団結運動」と「サバレーロ文化集団」が、クラブ側の推し進める収容人数縮小について交渉に当たった。これにより、従来インチャが享受していたアクセシビリティと快適さはひとまず保証されるとわかった。クラブの財政状態はドラスティックな改修を実行できるほど良好でなく、結果的に改修計画は当初の構想から大きく外れること無く、インチャは交渉が完璧に上手くいったことを盛大に祝った。
こうして2014年8月9日、プリメーラB・ナシオナル開幕戦インスティトゥートACコルドバ戦で、インチャ達は収容数が減ったスタンドに大きな問題もなく入場できた。

座席再塗装 (2016)

2016年3月、各スタンド座席の再塗装が行われた。「C.A.COLON」の文字部分を染め上げ、北と南のスタンド、北西コーナーの座席は赤と黒で均等に塗られた。

2015年のクラシコ・サンタフェシーノ

サッカーアルゼンチン代表戦

親善試合 Bandera de Argentina アルゼンチン 3:1 (1:1) Bandera de Panamá パナマ 2009年5月20日

コパ・アメリカ2011

アルゼンチン対コロンビア戦

グループステージ

2011年7月3日 18:30 (GMT-3) パラグアイ Bandera de Paraguay 0:0 (0:0)
グループB
エクアドル Bandera de Ecuador
2011年7月6日 21:45 (GMT-3) アルゼンチン Bandera de Argentina 0:0 (0:0)
グループA
コロンビア Bandera de Colombia
2011年7月10日 16:00 (GMT-3) コロンビア Bandera de Colombia 2:0 (2:0)
グループA
ボリビア Bandera de Bolivia

準々決勝

2011年7月16日 19:15 (GMT-3) アルゼンチン Bandera de Argentina 1:1 (1:1)
 
(4:5 p.)
ウルグアイ Bandera de Uruguay

コパ・アルヘンティーナ

日付 ラウンド クラブ 結果 クラブ
2011/11/29 ラウンド64 パトロナート Bandera de Provincia de Entre Ríos
(5) 0 - 0 (4)
Bandera de Provincia de Santa Fe ニューウェルス
2011/11/30 ラウンド64 アトレティコ・デ・ラファエラ Bandera de Provincia de Santa Fe
(4) 0 - 0 (2)
Bandera de la Ciudad de Buenos Aires フェロカリル・オエステ

コパ・アルヘンティーナ2014/2015

日付 ラウンド クラブ 結果 クラブ
2015/8/26 ラウンド16 アトレティコ・デ・ラファエラ Bandera de Provincia de Santa Fe
0 - 1
Bandera de la Ciudad de Buenos Aires CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ

コパ・アルヘンティーナ2016/2017

日付 ラウンド クラブ 結果 クラブ
2017/9/11 ラウンド32 CAタジェレス Bandera de Provincia de Córdoba (Argentina)
(2) 1 - 1 (4)
Bandera de Provincia de Mendoza CAヒムナシア・イ・エスグリマ・デ・メンドーサ

コパ・アルヘンティーナ2017/2018

日付 ラウンド クラブ 結果 クラブ
2018/6/22 ラウンド64 CAリーベル・プレート Bandera de la Ciudad de Buenos Aires
7 - 0
Bandera de Provincia de Salta CAセントラル・ノルテ
2018/7/31 ラウンド64 CAタジェレス Bandera de Provincia de Córdoba (Argentina)
2 - 1
Bandera de Provincia de Buenos Aires CAフェロカリル・ミッラン
2018/9/26 ラウンド16 CAセントラル・コルドバSdE Bandera de Provincia de Santiago del Estero
1 - 0
Bandera de Provincia de Buenos Aires CAブラウン・デ・アドロゲ

コパ・アルヘンティーナ2018/2019

日付 ラウンド クラブ 結果 クラブ
2019/2/26 ラウンド64 CAロサリオ・セントラル Bandera de Provincia de Santa Fe
(4) 2 - 2 (5)
Bandera de la provincia de Río Negro ソル・デ・マジョ
2019/4/3 ラウンド64 CAヌエバ・チカゴ Bandera de la Ciudad de Buenos Aires
0 - 1
Bandera de Provincia de Santiago del Estero CAセントラル・コルドバSdE
2019/5/15 ラウンド64 CAウラカン Bandera de la Ciudad de Buenos Aires
2 - 0
Bandera de Provincia de Santa Fe CAウニオン・デ・スンチャレス

席種とアクセス

各スタンドの収容数:Plateas este alta: 5,730     Plateas este baja: 4,834     Plateas oeste: 2,700     Plateas norte alta: 1,740     Plateas codo suroeste: 770     Plateas foso: 940     Tribuna popular norte: 5,200     Tribuna popular sur: 4、400     Codo popular noroeste: 2,800     Palcos codos: 1,000     Palcos vip, super vip y balcones oeste: 586 合計: 30,700
4つのスタンドはそれぞれ異なる通りに面している。
  • インテンデンテ・イリゴージェン通り:西側スタンド
  • リベルター通り:南側スタンド
  • ロドリゲス・ペーニャ通り:東側スタンド
  • フアン・ホセ・パソ通り:北側スタンド
公共交通機関では、コレクティーボ2, 4, 5, 8, 14の路線がスタジアム最寄り駅を通る。

コンサート

アーティスト 開催年
Bandera de Argentina ロス・ピオホス 1997
Bandera de Argentina パトリシオ・レイ&レドンディートス・デ・リコータ 1997
Bandera de Argentina ティーン・エンジェルス 2008
Bandera de España ホアキン・サビーナ 2010
Bandera de Guatemala リカルド・アルホーナ 2012
Bandera de Argentina カリーナ 2014
    

情報源

  1.  «Hemeroteca: Se llamará "Eva Perón" el estadio de Colón»El Litoral. Gobierno de Santa Fe. 5 de agosto de 1952.
  2.  «Hemeroteca: El estadio de Colón se llama "Eva Perón"»El Litoral. Gobierno de Santa Fe. 8 de agosto de 1952.
  3.  «Hemeroteca: Colón perpetuará el nombre de Eva Perón»El Litoral. Gobierno de Santa Fe. 11 de agosto de 1952.
  4.  «Estadio de Colón de Santa Fe»futbolpasion.com.
  5.  «Estadio del club Colón». Otto A. Papis.
  6.  «Cumpleaños 100 de Eva Perón y su vínculo con Colón». Aire de Santa Fe. 7 de mayo de 2019.
  7.  «Se cumplen 44 años de la tarde en que Colón conmovió al mundo»El Litoral. 10 de mayo de 2008.
  8.  Rodríguez, Tomás (9 de septiembre de 2014). «El día que Colón le ganó a la selección»El Litoral.
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  10.  «Llegaron los escalones para la nueva tribuna de Colón»Sin Mordaza. 12 de abril de 2019.
  11.  «Argentina venció a Panamá 3 a 1»La Nación. 20 de mayo de 2009.
  12.  «Argentina volvió a empatar»La Nación. 7 de julio de 2011.
  13.  «Argentina cayó en los penales frente a Uruguay y quedó eliminada»Infobae. 16 de julio de 2011.
  14.  Cruz, Enrique (9 de julio de 2006). «Hace 60 años se inauguraba el Cementerio de los Elefantes»El Litoral.
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  20.  «Hemeroteca: Pronto estará terminado el amplio estadio del C. A. Colón»El Litoral. Gobierno de Santa Fe. 29 de julio de 1945.
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  26.  «Hemeroteca: Partido inaugural entre Colón y Boca juniors»El Litoral. Gobierno de Santa Fe. 8 de julio de 1946.
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  28.  «Hemeroteca: Con un gran match inauguran hoy Colón su estadio iluminado»El Litoral. Gobierno de Santa Fe. 2 de abril de 1949.
  29.  «Hemeroteca: Colón obtuvo el trofeo Presidente Perón»El Litoral. Gobierno de Santa Fe. 31 de diciembre de 1950.
  30.  «Hemeroteca: Esta inundada nuevamente la cancha de Colón»El Litoral. Gobierno de Santa Fe. 9 de abril de 1951.
  31. «Hemeroteca: El club Colón adquirió un terreno lindero al estadio»El Litoral. Gobierno de Santa Fe. 19 de septiembre de 1950.
  32.  «Hemeroteca: Se ha terminado el primer tamo de tribunas en Colón»El Litoral. Gobierno de Santa Fe. 22 de febrero de 1952.
  33.  «Hemeroteca: Colón ganó a Dock Sud: 3 a 2»El Litoral. Gobierno de Santa Fe. 20 de abril de 1952.
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  36.  «Colón fue una fiesta de goles»La Nación. 28 de enero de 2007.
  37.  «Colón 3 - Olimpia 2». footballdatabase.eu. 23 de abril de 1998.
  38.  «Los diez elefantes que enterró Colón». Aire de Santa Fe. 4 de octubre de 2018.
  39.  «Hemeroteca: Colón y sus obras»El Litoral. Gobierno de Santa Fe. 14 de abril de 1975.
  40.  «Hemeroteca: Colón y la concreción de obras fundamentales»El Litoral. Gobierno de Santa Fe. 28 de diciembre de 1976.
  41.  «La cancha le jugó una mala pasada a Colón»La Nación. 18 de febrero de 1998.
  42.  «Más confort y localidades en el estadio de Colón»La Nación. 9 de mayo de 2001. Consultado el 26 de abril de 2017.
  43.  «De la fiesta al drama»El Litoral. 22 de agosto de 2014
  44.  «Drama y angustia en Santa Fe»La Nación. 26 de agosto de 2001.
  45.  «Colón y la inundación 2003»El Litoral. 29 de abril de 2013.
  46.  «River venció a Colón en un partido difícil»Clarín. 12 de octubre de 2003.
  47.  «Colón tendrá una megapantalla como Wembley»El Litoral. 1 de diciembre de 2008.
  48.  «Santa Fe será sede de la Copa América»Ámbito Financiero. 14 de mayo de 2009.
  49.  Ignacio Andreychuk y Enrique Cruz (20 de julio de 2009). «De viejo foso a banco modelo»El Litoral.
  50.  Cruz, Enrique (1 de septiembre de 2011). «Unión necesita la misma ayuda estatal que Rafaela»El Litoral. Consultado el 17 de mayo de 2019.
  51.  «Proyecto Ampliación y Remodelación Estadio»SlideShare. 29 de diciembre de 2009.
  52.  Andreychuk, Ignacio (31 de diciembre de 2009). «Así se vestirá el nuevo Colón»El Litoral.
  53.  «Santa Fe cuenta con uno de los estadios más modernos de Sudamérica». Gobierno de la Ciudad de Santa Fe. 26 de junio de 2011.
  54.  Sánchez, Alberto (2 de febrero de 2014). «Resurgir: un esfuerzo de todos»El Litoral.
  55.  «Pintan las tribunas del estadio de Colón»Sin Mordaza. 17 de noviembre de 2015.
  56.  «Obras en el estadio»Club Colón. 15 de julio de 2014.
  57.  «Colón cancha Colón estadio»Sin Mordaza.
  58.  Andreychuk, Ignacio (3 de junio de 2009). «“Este año será uno de los más exitosos de la historia de Colón”»El Litoral.
  59.  «Sede Santa Fe»Olé. 1 de junio de 2011.
  60.  «La noche que el Cementerio colapsó por la furia sabalera»El Litoral.
  61. 関連リンク集

翻訳元最終更新
es.wikipedia:Estadio Brigadier General Estanislao López 16:36 25 jun 2019(UTC)