Alberto J. Armando - アルベルト・J・アルマンド
Alberto J. Armando Copa Intercontinental.jpg

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クルブ・アトレティコ・ボカ・ジュニオルス第22代会長
1954-1955
前任者 ダニエル・ヒル
後任者 エミリオ・レベラット

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クルブ・アトレティコ・ボカ・ジュニオルス第25代会長
1960-1980
前任者 ミゲル・デ・リグロス
後任者 マルティン・ノエル

個人情報
生年月日と生地 1910年2月4日
Bandera de Argentinaサンタフェ州サンタフェ
没年月日 1988年12月27日 (78歳)
ブエノスアイレス Bandera de Argentina
国籍 アルゼンチン
職業
職業 スポーツクラブ経営者・実業家
種目
種目 サッカー
アルベルト・ホセ・アルマンド (Alberto José Armando)は、アルゼンチン共和国サンタフェ州サンタフェ・デ・ラ・ベラ・クルス出身のスポーツクラブ経営者および実業家。ボカ・ジュニオルス (ジュニアーズ)の会長を2期・通算約20年務め、ラ・ボンボネーラに名前が付けられている。実業家としては、ブエノスアイレス市南東部のヌエバ・ポンページャ区にある国内最大のフォード社ディーラー店のオーナーであった。
頻繁にミドルネームのホセをJacintoと間違って記述されるが、大抵CAウラカンとアルゼンチンサッカー協会の会長であったJacinto Armando氏と同一人物と勘違いした可能性が高い。

経歴とボカでの業績

幼年期のアルマンドはコルドバ州のサン・フランシスコ市で育てられ、この地では後に論敵となるダンテ・パンセーリと既に知り合っていた。パンセーリもアルマンドと同じく別の地で生まれ、コルドバ州で育てられていた。マリア・メルセデス・クレスポ氏と結婚し、1940年代に初めてボカの会員となった。クラブ内部で付けられた渾名は「ピューマ」である。
アルマンドが会長職にあった1954年と1955年にボカのサッカー部門はリーグ優勝を勝ち取っており、1960年に2度目の会長に就任した際にはフェロカリル・オエステからアントニオ・ローマとシルビオ・マルソリーニを補強、エルネスト・グリージョ、ダンテ・ルーゴ、アントニオ・ガラーバルを買い戻した。さらにブラジル人パウロ・ヴァレンチンとウルグアイ人ホセ・サシア、ワルテル・ダボイネら外国人選手も獲得した。
第1期目は短い任期だったがリーグで1回優勝し、第2期目は1960年から1980年と長期政権で、低迷したシーズンもあったが多くのタイトルを獲得。国際舞台ではボカにとって初のコパ・リベルタドーレス(1977)とインターコンチネンタル・カップ優勝(1977)を達成し、南米大陸と世界のクラブチーム王者になった。

練習場「ラ・カンデラ」

ボカの会長を20世紀の約4分の1近い期間務めたアルベルト・ホセ・アルマンドは先見の明のある人で、第2期の1963年には1300万ペソをはたいて50,173㎡、約6ヘクタールの土地を購入し、ラ・ボカ区の住宅のように色彩豊かなクラブハウスと多くのフィールド、プロチームと下部組織が同じ施設内で練習できる環境を作った。
この場所からロベルト・モウソ、アンヘル・クレメンテ・ロハス、ルベン・スニェ、オスバルド・ポテンテ、オスカル・ルジェリ、リカルド・ガレカ、ディエゴ・ラトーレ、ファビアン・カリーソ、ウーゴ・オスマール・ペロッティらが巣立っていった。アドルフォ・ペデルネラやアルフレッド・ディステファノら、1960年代に監督としてリーグ優勝を経験した宿敵CAリーベル・プレート (プレイ)のOB達でさえ、この施設を体験しに来たほどである。
1981年のメトロポリターノ優勝に大きく貢献したディエゴ・マラドーナと当時の監督シルビオ・マルソリーニ、そしてウーゴ・ガッティ、ミゲル・アンヘル・ブリンディシ、タノ・ペルニア、ペロッティらもこのブエノスアイレス州西部のフィールドでトレーニングを行っていた。
しかしながら、ボカは経営上の問題で1991年にラ・カンデラを放棄した。2005年には土地が売却され、この収入から80万ドルを使って近隣のやや標高の高い平野地帯に新たな土地を購入した。この場所は複合施設「カーサ・アマリージャ」と呼ばれており、スタジアムや放棄された廃工場などが存在している。

モヌメンタルでナシオナル1969の優勝を決めた後、ブエルタ・オリンピカ(場内一周)を行うボカの選手達と乱入してきたインチャ達

アルセナル・デ・リャバジョル

このクラブは1948年10月12日にブエノスアイレス州リャバージョル市において、トルネオス・エビータスという大会に参加するために結成された。1952年にアルゼンチンサッカー協会に加盟し、アマチュア最上位カテゴリーのプリメーラDに配属された。
1964年にはプリメーラCへ昇格したが、この12年間のうちの強化はボカと一種の提携関係を結んだことと関係している。同時期からアルセナル・デ・リャバジョルは黄色と灰色のユニフォームを廃止して、ボカと同じ黄色と青を採用した。「あのクラブはボカが打ち立てたサッカーアカデミーの産物と言っても過言ではないだろう。正式にクラブの保有権を獲得したのは1962年であった。わずか3シーズンでこの”支部”を維持するのにかかったコストは700万ペソだ。監督にはアドルフォ・ペデルネラが来てくれた」と1964年のエル・グラフィコ誌に記述されている。アルゼンチンにおいて合法的手段で傘下マイナークラブとして買い取った最初の例とされているが、後にボカのアルマンドと相手側の代表者アニバル・ディアス、その弁護士ダモンテ・タボルダによってこの提携は打ち切られた。ボカから見て、アルセナル・デ・リャバジョルはアンヘル・クレメンテ・ロハス、ルベン・マグダレナ、ペランドネスなどの育成をアウトソーシングされていた。クラブは1967年シーズンにプリメーラB・メトロポリターナ昇格を賭けたプレーオフまで進出した事もあった。しかし昇格は叶わず、翌シーズンもプリメーラCに所属し1968年中に解散した。

シウダー・デポルティーバ・デ・ボカ・ジュニオルス

この練習場は間違いなくボカの歴史上もっとも気宇壮大な建設プロジェクトだったが、しかしアルゼンチン経済の深刻な落ち込みによってアルベルト・ホセ・アルマンドの構想通りには進まなかった。ボカの「スポーツ・シティ」は1965年9月3日に着工し、その直後にラ・プラタ河の増水が発生した。 6つの島を橋でつなぎ、総面積は30ヘクタールに及び、1,200人を収容できるスタジアムを持ち、絵画館・レストラン・野外映画館・テニス場・バスケットコート・プール・釣り場その他様々な社交場・スポーツ施設が併設される予定であった。計画段階では「アルベルト・J・アルマンド」というスタジアムも含まれており、1975年5月25日にオープンした。つまり、ラ・ボンボネーラより先に同じ名称のスタジアムが既に存在していたことになる。
アルベルト・ホセ・アルマンドは同施設を自国開催の1978年FIFAワールドカップの会場のひとつとするべく完成を急いでいたのだが、同時期のアルゼンチンを襲った破滅的な経済危機でボカの懐事情も圧迫され計画は大きく頓挫した。ハイパーインフレがその極点に達した時、アルマンドとボカは一大プロジェクトのために買い取った海浜地帯の土地をわずか数年で売りに出さなくてはならなくなった

サマー・トーナメントの発案者

アルベルト・ホセ・アルマンドは1968年に老朽化したマル・デル・プラタ市の「エスタディオ・ヘネラル・サン・マルティン」の管理権を取得し、リーガ・マルプラテンセと自治体当局の全面協力を取り付け「トルネオ・デ・ベラーノ(夏大会)」の開催に向けて動き始めた。
1967年からAFAのバンフィエルドからの出向非常勤役員バレンティン・スアレスの提案により、プロビンチア強化策として始まったトルネオ・ナシオナルによってこのリゾート都市のサッカー人気は大いに高まり、夏にはマル・デル・プラタで親善試合・国際試合などエキシビションマッチが多数開催されるようになった。
1968年12月の夏にアルマンドはアルフレッド・ディ・ステファノを伴ってマル・デル・プラタの古びたスタジアムを訪れ、翌年の夏までに行うべき改修プランをディ・ステファノから提示してもらった。地元のリーグは当初難色を示していたが、最終的にサマートーナメント計画に賛同し、その後もリーグ中断期の夏の風物詩として長く行われた。そのメイン会場であるヘネラル・サン・マルティンは約10年間ほどボカが管理責任者であった。

ラ・ボンボネーラ再命名

2000年11月27日にラ・ボンボネーラ内部で行われたセレモニーにおいて、スタジアムの正式名称を1986年4月26日についた「エスタディオ・カミロ・シチェーロ」から「エスタディオ・アルベルト・J・アルマンド」へ変更する事が発表された。これはアルマンドがボカ史上最長政権の会長であり在職中に獲得したタイトルもまた最多である事に敬意を表したものである。セレモニーには歴代会長やその未亡人が多数出席した。 1995年に父親フランシスコ・マクリから継いでボカのソシオ、さらに会長となった自動車会社経営者マウリシオ・マクリがこの改名の提案者であるとされる。 ボカがトヨタカップでレアル・マドリーを下し、アルマンド存命中の1978年以来22年ぶりにクラブチーム世界王者に返り咲く直前の出来事であった。

映画のカメオ出演

在職中のタイトル(サッカー部門のみ)

情報源

 


翻訳元最終更新履歴 es.wikipedia:Alberto José Armando 21:14 14 jul 2019 (UTC)